Onthedayは海外旅行や国内旅行はもちろん、格安航空券、ホテル、列車のチケットなどお得な情報が満載!
新型コロナ緊急事態宣言期間中は自宅でOnthedayのTommy's Worldでお楽しみ下さい!

 平素より螢譽献磧璽廛薀鵐曄璽爛據璽Onthedayをご利用

いただきまして、誠に有難うございます

新制コロナウィルスによる緊急事態制限が延長になり都市封鎖や

自宅待機でそろそろ外へ飛び出したい気持ちを抑えて

感染拡大が収まるまでは、来るべき日に備えて観光商品知識を

広め、見直し企画を練る良い機会です。

旅の機関誌「Ontheday」HPのTommy's World「Tommyがおすすめする

旅のページ」からEuropeの都市や有名な美術館/博物館/城や
歴史/自然/文化などの観光地案内を是非お楽しみください。

次の旅行の必ずよいヒントやアイデアを得られると思います。

コロナウイルスが近々に終焉することを期待して頑張りますので

解決まで皆様も健康と安全に注意して頑張りましょう。

                                                 株式会社レジャープラン

                                                   旅の季刊誌Ontheday

                                                  スタッフ一同

 

 

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こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」

こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」


Royal Crescent Hotel 16 Royal Crescent,Bath, BA1 2LS, イギリス
ザ ロイヤル クレセントのサービスで、贅沢なひとときを
バースのロイヤル・クレセントにある壮麗な5つ星ホテルで、設備の整ったジム、
美しいランドスケープガーデンへと繋がる素晴らしいスパ、受賞歴のある
レストラン、カクテルバーを提供しています。スパにはリラクゼーションプール、
プランジタブ、ジム、サウナ、スチームルームがあり、ESPA
トリートメント、
CNDのシェラック(ネイルポリッシュ)を含む様々なトリートメントも
楽しめます。
The Royal Crescentの客室は18世紀のスタイルの内装で、豪華なベッド、花、
無料Wi-Fi
当時の芸術家の絵画(ゲインズバラを含む)が備わります。
Dower House(レストラン)、The Montagu(バー)では食事、カクテル、
シャンパンを終日用意しており、美しい庭園では伝統的なアフタヌーンティーを
楽しめます。

Bath House Spaはオリジナルの馬車宿と厩舎内にあります。
1775
年築のグレードI
指定建造物を利用しており、市内中心部、ポンプ・
ルーム・バス、シアター・ロイヤルまで徒歩15分、バース・スパ駅まで
わずか1.6kmです。
イングランド西部のバースは温泉が出る街として人気のある観光地です。
その歴史を遡ると、紀元前から1
〜2
世紀頃にかけてまず街を築いたのは
ケルト人やローマ人ですが、現在のまちなみが形成されたのはおおむね1
8世紀のこと。この世界遺産に登録されるほど美しいまちなみを象徴する
建築が、サーカスとロイヤル クレセントというふたつの集合住宅です。
特に後者、イオニア式の列柱に飾られた半楕円形の建物、その形に
抱かれるように広がる芝生と青空、そして芝生でくつろぐ人々…
この光景を目の当たりにすると、ロイヤル クレセントこそ世界で最も
美しい集合住宅だという評価が過言ではないと共感していただけるでしょう。

1泊お1人様 50,000円〜
お手配は,☎092−725−9090 EUROPE SPECJALIST 

 

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無料&徒歩でめぐる、ロンドン観光スポット

無料&徒歩でめぐる、ロンドン観光スポット

ビックベンから出発! 衛兵交代を見て、コベント・ガーデン、そして大英博物館へ。

交通費なし、入場料無料でまる1日ロンドンを満喫できるプラン!

 

ビックベンの鐘の音を聞いてから歩き始めるウェストミンスター橋から見える国会議事堂とビックベン

ビックベンの鐘の音を聞いてから歩き始める  ウェストミンスター橋から見える国会議事堂

 

皆さんをロンドンの市内観光へご案内します!

とてもシンプルでスタンダードなロンドンの街歩きです。スタートは

ビッグベンを午前10時!

ロンドンを象徴するこの大時計はロンドンの国会議事堂

(ウエストミンスター宮殿)に付属する時計台です。

2009年に150歳になりました。日本の学校でよく使われている、

キーンコーンカーンコーンというチャイムはこのビックベンの鐘の

音が基になっています。

 

ロンドン・アイも1度は体験したいアトラクション

テムズ川を挟んだ対岸には新しいロンドンのランドマーク、ロンドン・

アイが見えます。

目の前のウエストミンスター橋を中ほどまで渡って振り返ると、

華麗な国会議事堂の姿が眺められます。

1066年から英国国王の戴冠式が行われている大変由緒ある重要な寺院です。

 

ウエストミンスター寺院の前を通ってバッキンガム宮殿へ

ビックベンを背にしてバッキンガム宮殿へ。お目あては衛兵交代。

始まるのは11時30分。

ここにはニュートンやダーウィンなど、教科書に出て来る歴史上の

人物が埋葬されています。

ウェストミンスター寺院英国国王の戴冠式を執り行う教会として歴史を

歩んできた由緒ある建物。1997年のダイアナ妃の葬儀がここで行われました。

気持ちのよい公園を抜けて行きます

右手にセント・ジェームスパークが広がる

ロンドンにはとてもたくさんの公園があります。今、歩いているのは

セント・ジェームスパーク、ロイヤル・パークスと呼ばれる王立公園の1つです。

ハイドパークと比べると小振りですが、手入れの行き届いた花壇や水辺の景色が

とても素敵な場所です。リスや水鳥たちもすぐそばまで近寄ってきます。

セント・ジェームス公園バッキンガム宮殿とトラファルガー広場を結ぶ

ザ・マルに隣接。たくさんの水鳥とリスが走り回る公園、まさに都会のオアシス。

 

バッキンガム宮殿と衛兵交代

エリザベス女王の公邸バッキンガム宮殿

英国王室の宮殿そして、エリザベス女王の公邸、そして執務の場所です。

王室旗が掲げられていたら女王はご在宅、不在だと英国国旗になります。

「ロンドン」イコール「赤い上着に大きな黒い帽子の兵隊さんたち」。

ちなみに、黒い帽子はクマの毛皮でできているんだそうです。

儀式は11時半から40分間くらい、11時20分頃には楽団がやってきます。

宮殿をとりまく柵のそばより、正面のビクトリア記念碑の周辺のほうが

全体が見やすいと思います。もちろん最前列で交代儀式をかぶり付き、

も悪くありませんよ。気がつくと驚くほど人が集まっていました。

みんなうれしそうです。さすがロンドン屈指の観光地ですね。

 

ザ・マルからトラファルガー広場へ。

いつもたくさんの観光客で賑わっているトラファルガー広場

バッキンガム宮殿からトラファルガー広場までをつなぐ道路、

ザ・マルを通ってトラファルガー広場へ。

ザ・マルは王室の儀式用に作られた道路です。トラファルガー広場も

ロンドン観光には外せない場所のひとつです。高さ50mの石柱に立って

いるのはネルソン提督の像。

1805年トラファルガーの海戦でフランスとスペインの連合軍を破り、

ナポレオンのイギリス征服から国を守ったネルソン提督は英国の英雄です。

廻りを囲むライオン像も観光客には大人気です。

ナショナルギャラリー

ナショナル・ギャラリーはヨーロッパ絵画の宝庫

広場の北側に建つ堂々たる建物はナショナル・ギャラリー。ヨーロッパ絵画の

素晴しいコレクションが無料で見られます。ゴッホの「ひまわり」やオランダの

レンブラント、英国のターナー、印象派画家の作品、バロックから フランドル派

までが2300点展示されています。

好きな絵とじっくり対峙できますよ。2か所あるレストランとカフェもお薦めです。

 

中華街で食事!

中華街で何か食べてみる?

ナショナル・ギャラリーの裏手にはレストラン街が広がっていてソーホーと

呼ばれるチャイナタウンがあります。

海外旅行の間に、ごはんやおしょう油味が恋しくなった時、チャイナタウンは

日本人の強い味方の気がします。

 

コベントガーデンへ。

いつでもお祭りのように賑わっているコベントガーデン

朝ごはんフルイングリッシュブレックファーストをいただいて後は、

コベント・ガーデンに足を延ばしてみては。

、英国ブランドのショップやかわいいカフェなどがたくさんあり、

ストリート・パフォーマンスも人気があります。

ここは、ジョージ・バーナード・ショー戯曲『ピグマリオン』が

原作になったMayfair lady(メイフェア・レディ)の舞台でも有名です。

コベントガーデンは、言葉がわからなくてもきっと楽しめます。

気がつくとあっと言う間に時間が過ぎてしまう、そんな場所です。

 

大英博物館の正面入口800万点収蔵されている世界一の博物館。

 

最後にご案内したい場所は大英博物館。

コベント・ガーデンから歩くと20分ちょっと。

大英博物館もロンドン観光ではずせない場所です。

あまりに広くてあまりにたくさんの展示物がありますので、ポイントや

見たいものを決めてから回りはじめないと疲れが倍増してしまうので

韓愛MAPで検討してから・心に残る大英博物館作品をお楽しみ下さい。

見どころは、古代エジプト、古代ローマ、ギリシャギャラーリは、圧巻です。

どうも、おつかれさまでした!

 

 

 

 

 

 

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大人の雑学「アフタヌーンティーとハイティーの違い」!

優雅な紅茶のひと時を楽しむ前に、ちょっとした大人の 雑学でも!

「アフタヌーンティーとハイティーの違いをご存知 だろうか」

どちらも聞いたことはあるし、どんな物だかなんとなく 想像は出来るけど、何が

違うんだろう? という方も 多いはず!

難しい話はさておいて、簡単にその違いを詳解します!

アフタヌーンティ

イギリス発祥の喫茶習慣。習慣と言っても飲食を楽しむこよりも、社交の場と

しての意味合いが大きく、食器や 食べ物、室内装飾、花、会話の内容、

マナーなど、高度な 知識が要求される。日本で言う茶道のようなものだ。

現在では、正式なアフタヌーンティーをするには相当な 敷居の高さになって

しまう為、通常は簡略化して行われる。

アフタヌーンティーでは、紅茶はもちろん、サンドイッチ などの軽食や、

スコーン、ケーキ類などのペストリーが 供される。

スイーツは理解できるが、何故サンドイッチ? という疑問を持つ人も多いだろう。

アフタヌーンティーというのは、単なるお茶の時間では なく軽食の時間でもある。

そこで2つめの疑問。何故15時過ぎに軽食を食べるのか?

夕食に差し支えるのでは? 

この疑問は、ヨーロッパの文化を知っていれば理解できる。

ヨーロッパではオペラやクラシック・コンサート、 クラシックバレーなどの

催しが盛んだが、これらが開演する のは夕方以降。

早めの夕食にするにもかなり中途半端な時間 になってしまう。そして催しが

終わった後に夕食を食べると なると夕食の時間が大変遅くなり,お腹が空いてしまう。

そのために、催しの前にアフタヌーンティーで腹ごしらえを する。

お腹が空いていては、せっかくの楽しみも楽しめなく なる。

ヨーロッパの人々は楽しみ方を知っている。

ちなみに、アフタヌーンティーを象徴するアイテムとして、

2〜3段のケーキスタンドが使われることが多いが、これは 狭いテーブルを有効活用

するために使うものであり、広い テーブルで行なうアフタヌーンティーには

ティースタンドを 使わないのが作法。

尚、アフタヌーンティーは優雅に紅茶を 楽しむ場であるため、特にドレスコードを

謳っていない場合 でも短パン、サンダルは避けるべき。

格好はスマートカジュアルが推奨。

ハイティー

ハイティーというのは、アフタヌーンティーよりもさらに遅い時間に

行う食習慣で、労働者階級・農民の生活環境 から始まったもの。

その為、上流階級の人々は自分たちのお茶の時間を絶対にハイティーと

呼ばなかった。 ハイティーはアフタヌーンティーよりもさらに遅い時間、

つまり、事実上の夕食であった為、サンドイッチなどの 軽食やお菓子類だけ

ではなく、肉料理や魚料理がメイン としても並ぶ。

ちなみに、ハイティーの(high)は、メインの大テーブル(ハイテーブル)

供されることからその名が来ている。

現在では、ハイティーもアフタヌーンティーと同じ意味 で使われることが

多いが、これにも訳がある。 それは、日本にもなじみが深いアメリカが関係する。

アメリカが独立する前はイギリスの植民地であったが、 アメリカ人は「high」の

意味を「formal」の意味と誤解して いたため、“ ハイティー=格式ある紅茶の

習慣” と勘違いしてしまい、イギリスで言うアフタヌーンティーという意味で

日常化してしまったわけだ。

そして第二次大戦後、アメリカから様々な文化が日本に 入ってくる過程で

ハイティーという言葉が日本に入り、 その後ヨーロッパからアフタヌーンティーと

いう言葉も 入り、2つの言葉が混在するようになってしまったという わけだ。

ハイティーといえば、最も有名なのがシンガポールの ハイティー。

とりわけ、シンガポールにおけるイギリス文化の象徴とも 言うべきラッフルズ

ホテルのハイティーは特に有名。

シンガポールもイギリスの植民地であったために紅茶の文化 が入ったわけだが、

広東系華人の多いシンガポールでは お菓子類はもちろん、シュウマイ、餃子などの

点心も並び、 中華風にアレンジされているのが興味深い。

更に、シンガポールの最高級ホテルの一つでもある セントレジスのアフタヌーン

ティーでは、紅茶以外に中国茶なども用意されるなど、多様化を見せている。

ちなみに、シンガポールでハイティーが始まった経緯は、 元々

シンガポールに滞在していたイギリス人女性たちが、 蒸し暑い午後の外出を

避けて優雅に紅茶を楽しんでいたこと に始まり、徐々に広がっていったこと

による。

アフタヌーンティーの歴史 ページ冒頭でイギリス発祥と書いたが、ヨーロッパ

に最初に お茶が入ってきたのが1597年、オランダ東インド会社の 前身であ

るオランダ商船による貿易だ。

尚、当時のお茶は紅茶ではなく緑茶である。 そしてイギリスにお茶が入って

きたのが17世紀。 1662年にイギリス国王チャールズ2世のもとに嫁いできた

ポルトガルの 王女キャサリンが、中国茶と砂糖を大量に 持参。

ちなみに砂糖は当時としては貴重な高級品である。

これによってイギリス王室に喫茶の習慣をもたらし、 1664年にはイギリス

東インド会社がチャールズ二世に お茶を献上。

そして1720年に東インド会社が本格的にお茶を流通させた ことによって

紅茶のブームが開花する。

つまり、紅茶を飲む習慣が始まったのは18世紀に入って からのことであり、

意外とその歴史は古くない。

階級制度が確立していた当時のイギリスにおいて、 アフタヌーン

ティーは上流階級の社交、娯楽であったわけ だが、もともとの始まりは、

1日2食だった当時のイギリスの 食事情のため、空腹を紛らわすために

紅茶と軽食を口にした のがきっかけと言われており、これが19世紀に

入ってから のこと。 その後、上流階級の女性たちが友人やお客さんを

誘って 楽しむことが流行し、徐々に形式化されていったという わけだ。

この紅茶ブーム到来によってフォートナム&メイソン、 トワイニング、

ウィッタード、H.R.ヒギンス、リプトン、 ハロッズ、ウェッジウッド

など次々と紅茶関連のブランドが 立ち上がり、イギリスの紅茶文化は

確固たる地位を確立、 現在に至っている。

ホテルでのアフタヌーンティーは優雅な雰囲気の中で 美味しいスイーツ

が食べられるので、自分へのご褒美に 最適! 中には一人5000円を超える

敷居高めの高級ホテルも有り、 3000円程で優雅なアフタヌーンティーを

楽しめるホテルも 多い。

食べきれない程のスイーツと美味しい紅茶がおかわり自由 なので、

長い時間楽しめることを考えれば最高のコスト パフォーマンスですから、

遅めのランチとしても最適です!

尚、シャンパン付きのコースはおすすめです!

満足度がまるで違い 、とにかく至福のひと時を味わえる こと間違いなし!   

Tommy

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絵画の旅「マリー・アントワネットのお抱え女流画家エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン」

マリー・アントワネットのお抱え女流画家 ルーヴル美術館
有名な女流画家は、マリー・アントワネットのお抱え女流画家。
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

Elisabeth-Louise Vigee Le Brun 1755年4月16日 - 1842年3月30日)
18世紀の最も有名なフランス人女流画家。 画家ヴィジェの娘としてパリで
生まれ親から絵画教育を受け、当時の大家たちから の助言を受けた 彼女は,
10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていました。
1776年に、画家で画商であるジャン・バティスト・ピエール・ルブランと
結婚しました。 多くの貴族の肖像画を描いて、画家として成功しました。
そして、マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に
招かれ、 次の数年間は、ヴィジェ・ルブランは王妃や子供たち、王族や
家族の肖像画を 数多く依頼され、王妃を満足させました。  
1783年3月31日、ヴィジェ・ルブランはフランスの王立絵画彫刻家
アカデミーの 会員に、歴史画家として迎えられました。 また女流画家
アデライド・ラビーユ・ギアールも同じ日に入会が認められました。
 ヴィジェ・ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを
管理する 男性たちに反対されましたが、結局、彼らの主張はルイ16世の
命令によって 破棄されました。
マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力を
かけたからで あります。

同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーでは
なく、女性同士が比較される事は当然の事だったのです。
フランス革命の最中に王族が逮捕された後、ヴィジェ・ルブランは革命で
顧問客を失い、 彼女自身も逃亡しなくてはならなくなってしまい、
数年間をイタリア、オーストリア、 ロシアで生活して、画家として
働きました。 そこでは貴族の顧客を扱った事が、それまでの経験がとても
役立ちロシアでは貴族たち から歓迎され 女帝エカチェリーナ2世の皇族
一員を多数描きました。  
ロシア滞在中にヴィジェ・ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの
会員と なりました。  
第一帝政期にヴィジェ・ルブランはフランスに戻りましたが、また、
イギリスを訪れ バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描きました。
1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の
肖像画を 描きましたが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年には
スイスに赴き、 ジュネーヴの Societe pour l,Avancement des Beaux-Arts の
名誉会員と なりました。
フランスが王政復古するとルイ18世は、彼女を手厚く迎えてフランスを
安住の地としました。
彼女はご存知のように王妃マリー・アントワネットのお抱え宮廷画家 だったので、
ヴェルサイユ宮殿を訪れると彼女が描いたたくさんの絵画に出会えると 思います。

マリーアントワネットそして、とても有名な「マリー・アントワネットと子供たち」の絵画

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ルネ・ラリックの世界(René Lalique)

ルネ・ラリック(René Lalique)  LALIQUE ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコ期を代表する宝飾デザイナー
ルネ・ラリックによって創設された光と影の芸術をハンドメイド クリスタルで
表現するフランスのブランド「ラリック」。


その特徴は、花や樹木、昆虫、動物、神秘的な女性像などを題材とし、 フロステッド
といわれる艶消し技法を使ったレリーフによる装飾表現です。
フランス語でサティナージュと呼ばれるこのテクニックにより、光は単純 に透過する
ことなく内部にこもってから柔らかに反射されるため、赴き あふれる陰影が生まれます。
深い白色のトーンから透明に近い仕上げまで、 多彩なフロステッド加工において
ラリックは世界最高の技術を誇ります。
1860年4月6日 - 1945年5月1日)は、19世紀〜20世紀のフランスのガラス 工芸家、
宝飾ジュエリー)デザイナー。
アール・ヌーヴォー、アール ・デコの両時代にわたって活躍した作家。


前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、
その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いて
いたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎて からである。
1860年、フランス、シャンパーニュ地方マルヌ県アイ村に 生まれ、パリで育った。
1876年、パリの装飾美術学校に入学し、宝飾工芸家 で金属細工師のルイ・
オーコックに師事し、装飾の技術を習い、夜はパリの 装飾美術学校で学んだ。
その後1878年から1880年までイギリスに滞在しサイデナム・カレッジで学んだ。
                


パリに帰ったラリックは、1882年頃からフリーランスの宝飾デザイナーおよび
グラフィック・ーティストとして活動しはじめ、1885年にはパリの ヴァンドーム
広場にアトリエを構えるまでになった。
この頃のラリックは、 おもに女性向けの高級アクセサリーをデザインしていた。
カルティエなどの 著名な宝飾店にも作品を提供し、当時の高名な女優サラ・
ベルナールも顧客であった。
1897年、レジオンドヌール勲章を受章。
1900年のパリ万国博覧会では宝飾作品が大きな注目を集め名声を得た。 

                   
ラリックは1892年頃から宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れていたが、
本格的にガラス工芸の道へと進んだのは、ファッションの流行がボリューム
あるふくよかな服装からシンプルなラインを強調するスタイルに移った ため、
派手な装飾がある宝飾品が売れなくなったからといわれる。
実際に1905年頃を境にしてラリックのジュエリーは人気凋落が著しく、
評論家たちは手のひらを返したようにラリック作品に「陳腐」「悪趣味」 と
いった悪評を浴びせかけた。
1908年、ラリックはコティの注文により、香水瓶とラベルのデザインをした。
優美なデザインの瓶に香水を詰めて販売するというのは、当時においては 斬新な
試みであった。
同じ1908年、ラリックはパリ東方のコン=ラ=ヴィルに あったガラス工場を借り
(のちに購入)、本格的にガラス工芸品の生産を始めた。 1918年にはアルザス
地方のヴァンジャン=シュル=モデール(フランス語版) に新たな工場の建設を始め、
1922年(1921年とも)年に完成した。
これが、21世紀の今日まで続くラリック社の起源である。



1912年に宝飾品の展示会を開いた後、ガラス工芸品の製造に専念するように なった。
香水瓶、花瓶、置時計、テーブルウェア、アクセサリーなどを手がけ、 1920年代頃か
らはラスの分野で再び人気作家の地位を取り戻した。 1925年のパリにおける現代装飾
美術・産業美術展では、ラリックのために 1つのパビリオンが与えられた。
時流に沿って幾何学的構成の文様や器形を 採用するようになり、アール・デコ様式の
流行の一翼を担ったとされる。 1920年代から1930年代のラリックは、「パリ号」
「イル=ド=フランス号」 など大西洋横断航路の豪華客船やオリエント急行の客車などの
インテリア (ダイニングルームなどのガラス天井、装飾パネル)を担当した。
また、レストラン、ホテル、邸宅などの装飾、ステンドグラス、噴水など、 さまざまな
分野に活躍の場を広げた。
シボレーやジャガー、ロールス・ロイス などのカーマスコット(自動車のボンネット
先端に付けた装飾)作品も多数ある。 日本との関係では、1932年に旧皇族朝香宮邸
(現・東京都庭園美術館)の ガラスの扉やシャンデリアなどの製作を受注している。
1945年に亡くなるまで ラリックは数多くの作品を発表したが、晩年はリューマチが
悪化してデッサン が描けなくなった。


20年代から娘のスザンヌがデザインを手がけたものも ラリックの名前で発表された
ので作風に相当な幅が見られる。 事業は息子のマルクが継ぎ、近年までラリックの
孫娘であるマリー=クロード が経営とアートディレクションを になっていたが、
マリーは1994年に ラリック社の株を売却。血縁者による経営は終わりを告げた。
ラリック社は現在、化粧品や香水の容器を製作するポシェ社の傘下に入っている。
また、日本法人のラリック株式会社は、2005年7月31日付けで会社を清算している。
ラリックのガラス工芸品には、動物、女性像、花などアール・ヌーヴォー時代に 好まれた
モチーフが多く見られる。素材としては乳白色で半透明のオパルセント・ グラス(en)を
好んで用いた。これは、光の当たり方によって色合いが微妙に変化 するものである。
1920年代中頃からは色ガラスの作品も増えるが、色ガラスを使う 場合も単色で用いる
ことが多かった。技法的には、鋳鉄製の型を使った型吹き 成形およびプレス成形による
ものが多い。
「型吹き成形」:鉄製の凹型に溶けたガラスを空気圧で押し込むもの                     
「プレス成形」:凹型と凸型を用い、凹型に流し込んだガラスを凸型で押さえる もの               
これらの工程は機械化され、大量生産に対応していった。





 

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お城見学「ニュンフェンブルク宮殿&公園」

ニュンフェンブルク宮殿&公園

宮殿と公園の調和のとれた ヨーロッパ屈指の傑作です。
バイエルンの生ける「歴史書」であると同時に、建築と造園が絶妙な
ハーモニーで結びついているのです。
もし、子供の誕生祝いが全てこれほど美しいものなら!
バイエルン選帝侯フェルディナンド・マリアは、待望の皇太子誕生に喜び、
妃のサヴォア公アデレーデに土地を贈りました。 それは1663年のことで、
ヴィッテルスバッハ家の選帝侯妃にしてサヴォア公だったヘンリエッテ・
アデレーデは、自身のために庭園を備える夏用の小さなヴィラを建てました。
これがニュンフェンブルク宮殿の前身です。 18世紀初頭には、 ギャラリーで
接続された居住パビリオンが両側に追加され、ファサードが「フランス風」に
リフォームされて、簡素な宮殿はエレガントで広大な夏の離宮に生まれ
変わりました。

今日ニュンフェンブルク宮殿を見学すると、ある意味バイエルンの歴史を
体験することになります。
2世にも及ぶ歴史の中で、バイエルンの選帝侯や国王たちがここに
足跡を残しているからです。 完璧なバロック施設を構成する要素をご紹介
しましょう。
バーデンブルクは、暖めることができる、初めての近代「スイミングホール」
です。ロココ様式による銀青色の狩猟用離宮アマリエンブルクは、独特な
豪華さの中に、夥しいほどの繊細で感嘆に値するディテールを持ち合わせて
います。

ニュンフェンブルク宮殿の北翼には、人と自然の博物館があります。
ここでは、地球と人類の歴史をたどるタイムトラベルを体験できます。
エクスカーション ミュンヘンのホーフガルテンは、アルプス以北で最大の
ルネッサンス庭園に数えられています。 ホーフガルテンの北東部には、
直接イギリス庭園へ接続している、散歩道があります。 ミュンヘン北部、
シュライスハイム宮殿敷地内のルストハイム宮殿には、古いマイセン陶磁器の
世界的に有名なコレクションがあります。 ミュンヘンの南方に位置する、
シャッヘンの「国王の山荘」は、国王ルートヴィヒ2世が山岳部に滞在する
際の避難所として利用していたもので、アルプスガーデンが併設されています。
山荘の下には、1900年に植物園のアルプスガーデンが造られています。

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ゲーテ街道

ゲーテ街道
 
フランクフルトから東、ライプツィヒに向かう道はゲーテ街道と呼ばれている。
アイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、ワイマルの街はいずれも
チューリンゲンと呼ばれる地域にあたりアイゼナハの南西にフランクフルトがあり、
ライプツィヒの北北東にベルリン、同じライプツィヒの東南東にドレスデンがある。 
街の位置の地図ワイマルはヴァイマルと表記される場合もあります .
1749年にフランクフルトで生まれたゲーテがライプツィヒ大学で学び、ワイマルで
活躍したことに因んで名づけられた「ゲーテ街道」ですが、1685年生まれのバッハが
多くの足跡を残しており、さらに200年ほどさかのぼる1483年生まれのルターも
主にこの地域を中心に活動しています。


1.ライプツィヒからアイゼナハへ  
ライプツィヒにある聖トーマス教会はバッハがカントール(音楽監督兼合唱指導)
を勤め、1750年に亡くなった後、現在は教会の祭壇に埋葬されている終焉の地ですが、
そのライプツィヒから西へ特急で1時間40分のところにあるアイゼナハはバッハ生誕
の街です。
アイゼナハの駅のホームには「J.S.バッハ生誕地」と記した看板があります。


まずはアイゼナハの街から。駅の外に出るとすぐ前方に古い街の門、
「ニコライ門」が見えます。駅から街の中心部へは10分とかかりません。
ニコライ門をくぐったところは広場になっていて、宗教改革を行ったマルチン・ルター
の銅像が建っています。 街の中心部、市庁前の広場にはルターが説教を行い、バッハが
洗礼を受けたという聖ゲオルグ教会があります。その裏手の路地に見える木組みの
建物が、ラテン語を学んだルターが下宿をしていた家で、ルターハウスと呼ばれています。
ルターハウスではこの街におけるルターの足跡とともに1500年代この地方の暮らしを
紹介する展示を見ることが出来ます。


ルターハウスから小さな坂を上って下りかけたところに、バッハの銅像が建っていて、
そばの建物がバッハハウスと呼ばれるバッハ一族にゆかりの家と隣接する展示館です。
菩提樹の木陰に憩うバッハ像にご挨拶してからバッハハウスの展示館に入ると
視聴覚機器を駆使した立体的な映像やブランコ型のリスニング装置でのオーディオ
再生を使ってバッハの音楽を楽しむことが出来ます。
バッハの足跡を示すさまざまな資料に加えて、当時の楽器が豊富に展示されており、
時間を決めて係の人が説明とともに古楽器を演奏してくれるのも見逃せない
パーフォーマンスです。


アイゼナハの街の背後の山にそびえるヴァルトブルク城は、アイゼナハの駅
からお城のすぐ下までバスで行くことが出来ます。
ヴァルトブルク城は世界遺産になっている名城で、1067年からの築城と
いわれています。城は下から見上げても、登って間近に見ても外観が美しい
だけでなく、数々の逸話に彩られた歴史的にも重要な山城です。
城内の案内ツアーは下の入口から入って、この地域の歴史と築城の経緯が
語られます。中世の吟遊詩人の歌合戦が行われた広間もあり、後にワグナーが
歌劇「タンホイザー」の舞台としたことはよく知られています。
さらに城一番の大広間「祝宴の間」を見て、1時間ほどのツアーが終ります。
マルチン・ルターが宗教改革で迫害を受けた時に、土地の領主の計らいでこの城の
一室にかくまわれ、そこで聖書の翻訳を行ったという事実。それは1521年から
1522年にかけて約10カ月かかったといわれています。
そのルターの部屋(ルター・シュトゥーベ)はルター関連の資料が展示された
部屋を出て渡り廊下を渡ったところにあります。
話に聞いていた木の机と椅子、悪魔が妨げに来た時にインク壷を投げつけたために
出来た壁の傷、日ごろ足置きに使っていたという大きなクジラの骨が置かれた部屋を

みて、城外に出ると城の周りはうっそうとした森に囲まれています。
隣接するホテルのテラスでアイゼナハの街や遠くに続くチューリンゲンの
森を眺めながら、この地方独特の焼きソーセージとビールを味わう幸せなひと時。  
ヴァルトブルク城の山を降りて、前述の聖ゲオルグ教会を訪れます。
教会に入るとすぐのところにバッハの銅像があります。バッハハウス前の銅像とは
違うポーズです。


この教会のマントを羽織った姿の黒光りしているバッハ像は独特で印象に残り
バッハ像の斜め後ろの壁にはプレートが掲げられていて、「1685年3月23日、
J.S.Bachがこの教会で洗礼を受けた」と記されています。
教会の祭壇前に置かれた鉢はバッハ受洗時のものだそうです。
この教会はその正式名称「新教ルター派聖ゲオルグ教会」が示すようにルター
とも大きな縁でつながっています。 ここで洗礼を受けたバッハも当然ルター派の
新教(プロテスタント)信者として教会音楽の世界に入って行ったことが容易に
伺われます。
教会の中に入って祭壇と反対側、後の上部には立派なパイプオルガンがあります。
1524年に起こった農民戦争で一度破壊された後、1560年に再建され、バッハ一族の
者が多くオルガニストを勤めて来たということですから、大バッハもこれを演奏した
ことがあると考えてよいのでしょう。
前の日に訪ねたバッハハウスの売店で求めて来た「ルターの詩によるバッハ作品集」と
いうCDのジャケットにもこのオルガンの写真があります。
ルターハウスにもリュートやギターなどの楽器が展示されていたようにルターは音楽を
好み、家族と楽しむ一方でたくさんの讃美歌を作りましたが、後にバッハが
教会カンタータを作曲する時に採り入れたものがかなりあるといわれて
います。
下の2枚の写真は聖ゲオルグ教会の内部とバッハ受洗のプレートです。
このあと、近くのチューリンゲン博物館を見て、1時間ほど市内を散策してホテルに
戻りました。


2.アルンシュタットからエアフルトへ  
アイゼナハに2泊してからエフハルトへ向かいました。アイゼナハからエアフルト
へは特急で30分足らずです。エアフルト駅のインフォメーション(案内所)で
今日の目的地、アルンシュタットへの行き方を教えてもらいました。
アルンシュタットの街の案内パンフレットも貰うことが出来たので大助かりです。
アルンシュタットへはエアフルトからローカル線(EB:エアフルト鉄道)で15分です。

アルンシュタットは青年期のバッハが18歳で街の新教会のオルガニストとして音楽家と
しての活動を開始したところです。ここの市庁舎前広場には青年バッハの像があります。

駅前に出るとタクシーで5分ほどでバッハ像の前につきます。ここのバッハ像は
「偉大な」という形容詞にぴったりの立派なものであるのに対して、若々しく
ユーモラスで、この街に3年ほどいた間にいくつかのトラブルを起こしたという、
青年バッハの荒削りな姿が伺われて微笑ましいものです。
市庁舎隣の案内所で街の地図を手に入れて、すぐ傍のバッハ教会(バッハ当時の
新教会現在名)のオルガンはバッハの赴任直前に作られ、試奏を頼まれたバッハが
その縁でオルガニストになったという由緒のあるものです。
教会の内装にマッチした綺麗なオルガンを写真に撮らせてもらいました。
教会の人はとても親切で、祭壇前のベンチにしばらくジィーと座っていると、
日本語で書かれた、教会とオルガンそしてバッハの足跡を記した説明書のコピーを
持ってきてくれました。ここのオルガンでの演奏が収録された2枚のCDがあると
いうので、それを購入して教会の外に出ました。教会の周りをひと回りしてみると
外観もどっしりした立派な教会です。ちょうどお昼の時間になりましたので、近くの
郷土料理レストランでお奨めのチューリンゲン風焼きソーセージにマッシュポテトと
ザワークラウトを食べて、時間の許すまで街を歩きました。
最後にお城の博物館でバッハ関連の展示を見ました。説明によると先ほど市庁舎前の
広場で見た青年バッハ像は1985年のバッハ生誕300年祭にお披露目されたようです。
博物館にはこのほか、この地方の生活や文化を示す展示物が豊富にありました。
この街に来た時はタクシーで旧市街地へ連れて来てもらいましたが、それほど大きな
街ではないことが分かりましたので、帰りは地図を見ながら歩いて駅に戻りました。  
再びエアフルトの駅に着いたのは午後4時過ぎでした。
エアフルトはチューリンゲン州の中心都市で古くから商業で栄えた街だということです。
その象徴がクレーマー橋で、橋の上、通りの両側に店が並んでいる珍しい造りです。
ホテルからすぐのところにあるそのクレーマー橋を渡ったところに市庁舎があり、
その前はフィッシュ・マルクト広場です。広場に面した建物の1階はレストランが
並んでいて、店の前のテラスにテーブルが置かれています。
フィッシュ・マルクトからさらに10分ほど歩くと大聖堂の前のドーム広場に出ます。
このあたりがエアフルトの中心です。
エアフルトの第2日目はホテルのそばのアンガー広場から街歩きをスタート。
アンガー広場からクレーマー橋の上流の橋を渡ってフィッシュ・マルクトへ出て、左に
曲がると大聖堂のドーム広場に着きます。ドームと呼ばれる大聖堂は正式には聖マリア・
カソリック大聖堂という名前です。もうひとつの巨大な教会、聖セベリオ教会が大聖堂の
右側に並んで建っているのはエアフルトの街の景色の中でも壮観です。ともに公開されて
いるので、中に入ってその威容を目に焼き付けました。ドーム広場には横断幕が
掲げられていて「クレーマー橋祭り」と書かれています。



さきほどの大聖堂に入るとき見かけた「グロリオサ見学ツアー」に
行って見ることにしました。グロリオサというのは大聖堂の塔の上にある大きな鐘で、
鐘を揺らして中の振子で音を出す方式の鐘の中では世界一の大きさであるといいます。
いまは古くなったため、特別の日だけ鳴らされるそうです。
直径が2m半もあるような大きな鐘で案内の人がこぶしで叩くと、「グォ〜ン」と
鈍い音がしました。大聖堂の後ろにはペータースブルグという大要塞があります。
ここへ登るとエアフルトの街が一望のもとに見渡せます。
夕食に出かけたのはホテルで教えてもらった、旧市街とは反対の街を丸く包み込む
外周道路に面したチュービンゲン料理のレストラン。ホテルからは歩いて10分も
掛らないところですが、その外周道路(リングと呼ばれています)の傍にに小さな
広場があって、何やら胸像のようなものがありJURI GAGARINと記されていました。
旧ソビエト連邦が飛ばした宇宙船に乗った、あの人類初の宇宙飛行士です。
もう一度地図をよく見ると、いま渡った外周道路には「ガガーリン通り」という
名前が付いていました。エアフルトのあるチューリンゲン州は旧東ドイツであった
ことを改めて実感しました。15年前に初めてフランクフルトからドレスデン行きの
特急でライプツィヒに向かった時、旧東ドイツに入ると景色がモノクロに変わった
ような印象を受けたのを覚えています。いまは復興が進んでおり、ドイツ国内の他の
地域と比べてもそん色ありません。

3.ワイマルからライプツィヒへ  
エアフルトに2泊してライプツィヒへ戻る途中、ワイマルへ立寄ることにしていました。
ワイマルといえば多くの方がゲーテの名を思い浮かべるのではないでしょうか。



昨年、フランクフルトで訪ねたのはゲーテの生家でした。
ワイマルで長年にわたって宰相を勤めたゲーテはこの地で1832年に亡くなっています。
エアフルトからワイマルまでは鉄道で15分の距離です。
ワイマルの駅でタクシーに乗ってゲーテハウスまで曲がりくねった道を走りゲーテハウス
の前で下車。ゲーテハウスに入館すると、電話の受話器型の音声装置を渡されますが、
日本語はないので英語を選んで、館内の部屋ごとに表示された番号を押すと説明が
流れて来ます。ワイマルの宰相として活躍したゲーテの公式な応接スペースの他、
数々の名作が生まれた書斎、図書室、家族の部屋を順に巡って行き、最後に寝室に
至ります。ここがゲーテが「もっと光を!」という有名なことばを残して生涯を
終えた部屋です。
ゲーテハウスの前の道を少し行くと市庁舎の前のマルクト広場に出ます。
ここの案内所で絵はがきになった街の地図を買って、それを見ながらゲーテと
シラー、二人の像があるという国民劇場前を目指して歩きはじめましたが、どこかで
完全に道に迷ってしまいました。
ひとに尋ねながらなんとか二人の像にたどりついて、改めて地図を見ると、かなり先まで
歩いてしまったようです。


ワイマルではこの後、シラーの住んだ家(シラーハウス)を見て、ワイマル城の
美術館を訪ねました。お城は市内を流れる小川に沿った公園に面していて、鴨の群れが
憩う自然豊かな所にあります。その公園の中にはゲーテの山荘がある筈です。
あらかじめ目を付けておいた、市庁舎前の広場に面した老舗ホテルのテラスで
ゆっくりと昼食を摂り、ゲーテハウス前まで歩いてタクシーで駅に戻りました。
ワイマルの街でもバッハに出会いました。市庁舎前に戻るために歩いて
いて通りかかったバッハの胸像の傍、反対側の家の壁に「ここに建っていた家にJ.S.Bachが
1708年〜1717年まで住み、そこで1710年にFriedemann Bachが、
1714年にPhillip Emanuel Bach(ともにバッハの息子で音楽家)が生まれた」と書いて
あるのを偶然見つけました。


ワイマルからライプツィヒへは特急で1時間と15分ほどです。
聖トーマス教会のあたりはいつも人で賑わっています。
夕方6時から聖トーマス教会で行われる音楽祭最後のプログラム「ミサ曲ロ短調」を
聴くことを楽しみに時間まで菩提樹の木陰のバッハ像と向かい合うお店に入りました。
日本風にいうとバッハ亭とでも呼べるような名前の付いたレストランのテラスに座って、
この季節が旬の白アスパラガスにハムとジャガイモが添えられたお皿を頼んで、
バッハ像に向かって乾杯し、チューリンゲンの旅を振り返りました。


 

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世界で最も有名な芸術家とアンボワーズ

世界で最も有名な芸術家レオナルド・ダヴィンチとアンボワーズ

フランスの庭”と称えられる美しい人口約12,000人の小さな町アンボワーズ。
純粋なフランス語を話すことで知られるトゥーレーヌ地方にある小さな町で
歴史的にも 見所が、たくさんある。 15世紀よりフランス歴代の国王が居住
したという由緒を誇る町アンボワーズ。 小高い岩山の上からロワール渓谷を
望むアンボワーズ城は、この町のシンボルとして古くから親しまれている。
河岸から見上げると、さすがにもとは中世の城砦だっただけあり、優雅かつ
重厚さを感じる。500年前、丘の上にあったこの城は、さぞかし目立つ存在で
あったことであろう。


この城の敷地内のチャペルには“世界で最も有名な芸術家”が眠っている。
イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチである。
アンボワーズはレオナルドが晩年を過ごした町として知られており、
アンボワーズ城から400メートルほど離れた場所にはレオナルド最後の家、
クロ・リュセ城が今も当時のままの姿で残されている。フランソワ1世に
招待されてイタリアから1516年にやってきたレオナルド・ダヴィンチ、
その荷物には、後にルーヴル美術館の至宝となるモナリザ、聖アンナと聖母子、
洗礼者聖ヨハネの3作品が含まれていた。1519年5月2日に亡くなるまで
3年間をクロ・リュセ城で過ごしたが、この城とアンボワーズ城は地下道で
つながっており、フランソワ1世はこの地下道を通って度々レオナルドを訪ねて
いたといわれている。レオナルドは、彼の意志に従ってアンボワーズ城の
サン・フロランタン教会堂に葬られ、その後19世紀になって教会堂が取り
壊されると、彼の遺骨は、アンボワーズ城の聖ユベール礼拝堂に移された。



アンボワーズ城下には、レオナルド・ダヴィンチも通ったことであろう
オシャレなお店やカフェがたくさんある城下町が広がる。その中でも、
スィーツ好きの方には、お菓子屋さんPatisserie Bigot(パティスリ・ビゴ)が
お勧め。テラス席からは、ゆったりアンボワーズ城を眺める事もできる。
1913年から営業をしている歴史のあるお店である。そして、お土産探しには、
Loire et Terroirs(ロワール・エ・テロワール)がお勧め。スーパーや普通の
お土産屋さんでは手に入らない、ロワール地方の特産を手に入れる事ができる。


また、アンボワーズ城を囲むぶどう畑は、トゥーレーヌでも最も美しい畑の
一つであり、 この地方の フリント(火打ち石)混じりの粘土石灰質は、
ワインに力強さを与え良質のワインを生む。昔のワイン貯蔵庫の洞窟を改造して
作られたレストランLa Cave Aux Fouees (ラ・カーヴ・オ・フエ)は、
料理が全て薪のかまどで調理され、洞窟の中で伝統料理の各種コースを食べる
ことができる。 情緒溢れる町アンボワーズは、世界的に有名なロワールの古城群と
ワイナリー巡りへの理想的なアクセスポイントでもあり、フランスの歴史を感じ、
時をゆっくりと過ごしたい方へのお勧めのスポットである。現在でも世界的に
有名な人物が第二の故郷として別荘(ラ・ファーシェット城)をもち、年に
数か月はこの地で過ごしている。その人とは、イギリスのロックバンド、
ローリング・ストーンズのヴォーカル、ミック・ジャガーである。
この地でローリング・ストーンズのアルバムレコーディングが行われたことも
あるらしい。
パリAusterlitz駅から直通電車で2時間、Amboise駅下車。
またはパリMontparnasse駅からSt Pierre des Corps駅までTGVで1時間、
St Pierre des Corps駅で乗り換え、Amboise駅下車となる。

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グリンツィング(Grinzing)観光客が集う、古き正統派ホイリゲ街

グリンツィング(Grinzing)観光客が集う、古き正統派ホイリゲ街

オーストリアで最も有名なホイリゲ村です。

ウィーン中心部から訪れると、かなり郊外の方に行きますし時間も

かかりますが、ここはウィーン市内です。

ホイリゲ村ではなくホイリゲ街です。
ホイリゲは路面電車のグリンツィング駅(Grinzing
)を中心に東西に

軒を並べていましたが、現在は団体客を多く収容できる大きなホイリゲが

点在するだけです。夕食時は団体の観光客で各ホイリゲはいっぱいと

なります。日本からのツアーで行く場合も、オプショナル・ツアーなどで

ホイリゲを頼むとほぼ間違いなくグリンツィングに行くことになります。

殆どのホイリゲはシュランメル音楽の楽士を入れており、それ目当ての

観光客も多くなります。

グリンツィングも昔ながらの葡萄農家が家族で経営するホイリゲも皆無と

いう訳ではないのですが、自家製ワインではなく買い付けたワインを

飲ませるホイリゲ風レストランが多くなっています。

大きなホイリゲは全てホイリゲ風レストランというわけでもなく、

ワイナリー経営の自家製ワインを飲ませてくれる店もあります

近年は団体客を収容できない小さなホイリゲの閉店が相次いでいます。
グリンツィングは観光客相手のホイリゲ街というイメージが強いですが、

実際は地元の人達を常連とする昔ながらの家族経営のホイリゲも少なく

ありませんでした。ところが近年になり、地元の人達や小グループの

観光客の足が遠のいてしまいました。

その為に 経営の苦しい小さな店の閉店が多くなっているのです。

ウィーン市も事の深刻さに  ようやく気が付いたようで、

景観条例のようなものをつくり、昔ながらのホイリゲ街の街並みを

守ろうとしています。    

但し、その景観条例も廃業したホイリゲの後に入るのはイタリアン

レストランやビア・バーで、ホイリゲの減少に歯止めをかける役割は

果たしていません。ここはウィーン市を一望できるカーレンベルク

(Kahlenberg)への入口でもあります。カーレンベルクの中腹で、

バス(38A番)が走る道沿いの2軒のホイリゲもグリンツィングに

所属しています。

路面電車の駅から少し山の方にある教会裏手の墓地には、音楽家

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)のお墓があります。

ホイリゲ

多くのホイリゲでは自家製ワインの量を調整する為休業期間

設けています。
ここで紹介するホイリゲを利用する場合は、必ず各ホイリゲの

サイトまたは地域のサイトで営業日を確認してください。

Zum Martin Sepp(ツム・マルティン・セップ)

Weinguter Reinprecht(ラインプレヒト)

Heuriger Hans Maly KG(マリー)

Weinbau Franz and Helga Rascher(ラッシャー)

Gerstners Landhaus(ラントハウス)

行き方
ウィーン中心部から行く方法は2つあります。
地下鉄2番線のシュッテントーア・ウニバーステート

(Schttentor-Universität)駅に隣接する路面電車のターミナル、

シュッテントーア(Schottentorから路面電車38番グリンツィング

(Grinzing)行きに乗り、終点のグリンツィングで降りる。
地下鉄4番線で終点のハイリゲンシュタット(Heiligenstadt

まで行き、市バス38A番カーレンベルク(Kahlenberg)行きに乗り、

グリンツィングで降りる。
時間的には後者の方法が早いです。個人的には、ウィーンの街を

見ながらゆっくりと坂道を上っていく,前者の方法が好きです。

特に帰りは必ず前者の方法で帰ってきます。

夕暮れ時のウィーンの車窓は最高です。

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