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ゲーテ街道

ゲーテ街道
 
フランクフルトから東、ライプツィヒに向かう道はゲーテ街道と呼ばれている。
アイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、ワイマルの街はいずれも
チューリンゲンと呼ばれる地域にあたりアイゼナハの南西にフランクフルトがあり、
ライプツィヒの北北東にベルリン、同じライプツィヒの東南東にドレスデンがある。 
街の位置の地図ワイマルはヴァイマルと表記される場合もあります .
1749年にフランクフルトで生まれたゲーテがライプツィヒ大学で学び、ワイマルで
活躍したことに因んで名づけられた「ゲーテ街道」ですが、1685年生まれのバッハが
多くの足跡を残しており、さらに200年ほどさかのぼる1483年生まれのルターも
主にこの地域を中心に活動しています。


1.ライプツィヒからアイゼナハへ  
ライプツィヒにある聖トーマス教会はバッハがカントール(音楽監督兼合唱指導)
を勤め、1750年に亡くなった後、現在は教会の祭壇に埋葬されている終焉の地ですが、
そのライプツィヒから西へ特急で1時間40分のところにあるアイゼナハはバッハ生誕
の街です。
アイゼナハの駅のホームには「J.S.バッハ生誕地」と記した看板があります。


まずはアイゼナハの街から。駅の外に出るとすぐ前方に古い街の門、
「ニコライ門」が見えます。駅から街の中心部へは10分とかかりません。
ニコライ門をくぐったところは広場になっていて、宗教改革を行ったマルチン・ルター
の銅像が建っています。 街の中心部、市庁前の広場にはルターが説教を行い、バッハが
洗礼を受けたという聖ゲオルグ教会があります。その裏手の路地に見える木組みの
建物が、ラテン語を学んだルターが下宿をしていた家で、ルターハウスと呼ばれています。
ルターハウスではこの街におけるルターの足跡とともに1500年代この地方の暮らしを
紹介する展示を見ることが出来ます。


ルターハウスから小さな坂を上って下りかけたところに、バッハの銅像が建っていて、
そばの建物がバッハハウスと呼ばれるバッハ一族にゆかりの家と隣接する展示館です。
菩提樹の木陰に憩うバッハ像にご挨拶してからバッハハウスの展示館に入ると
視聴覚機器を駆使した立体的な映像やブランコ型のリスニング装置でのオーディオ
再生を使ってバッハの音楽を楽しむことが出来ます。
バッハの足跡を示すさまざまな資料に加えて、当時の楽器が豊富に展示されており、
時間を決めて係の人が説明とともに古楽器を演奏してくれるのも見逃せない
パーフォーマンスです。


アイゼナハの街の背後の山にそびえるヴァルトブルク城は、アイゼナハの駅
からお城のすぐ下までバスで行くことが出来ます。
ヴァルトブルク城は世界遺産になっている名城で、1067年からの築城と
いわれています。城は下から見上げても、登って間近に見ても外観が美しい
だけでなく、数々の逸話に彩られた歴史的にも重要な山城です。
城内の案内ツアーは下の入口から入って、この地域の歴史と築城の経緯が
語られます。中世の吟遊詩人の歌合戦が行われた広間もあり、後にワグナーが
歌劇「タンホイザー」の舞台としたことはよく知られています。
さらに城一番の大広間「祝宴の間」を見て、1時間ほどのツアーが終ります。
マルチン・ルターが宗教改革で迫害を受けた時に、土地の領主の計らいでこの城の
一室にかくまわれ、そこで聖書の翻訳を行ったという事実。それは1521年から
1522年にかけて約10カ月かかったといわれています。
そのルターの部屋(ルター・シュトゥーベ)はルター関連の資料が展示された
部屋を出て渡り廊下を渡ったところにあります。
話に聞いていた木の机と椅子、悪魔が妨げに来た時にインク壷を投げつけたために
出来た壁の傷、日ごろ足置きに使っていたという大きなクジラの骨が置かれた部屋を

みて、城外に出ると城の周りはうっそうとした森に囲まれています。
隣接するホテルのテラスでアイゼナハの街や遠くに続くチューリンゲンの
森を眺めながら、この地方独特の焼きソーセージとビールを味わう幸せなひと時。  
ヴァルトブルク城の山を降りて、前述の聖ゲオルグ教会を訪れます。
教会に入るとすぐのところにバッハの銅像があります。バッハハウス前の銅像とは
違うポーズです。


この教会のマントを羽織った姿の黒光りしているバッハ像は独特で印象に残り
バッハ像の斜め後ろの壁にはプレートが掲げられていて、「1685年3月23日、
J.S.Bachがこの教会で洗礼を受けた」と記されています。
教会の祭壇前に置かれた鉢はバッハ受洗時のものだそうです。
この教会はその正式名称「新教ルター派聖ゲオルグ教会」が示すようにルター
とも大きな縁でつながっています。 ここで洗礼を受けたバッハも当然ルター派の
新教(プロテスタント)信者として教会音楽の世界に入って行ったことが容易に
伺われます。
教会の中に入って祭壇と反対側、後の上部には立派なパイプオルガンがあります。
1524年に起こった農民戦争で一度破壊された後、1560年に再建され、バッハ一族の
者が多くオルガニストを勤めて来たということですから、大バッハもこれを演奏した
ことがあると考えてよいのでしょう。
前の日に訪ねたバッハハウスの売店で求めて来た「ルターの詩によるバッハ作品集」と
いうCDのジャケットにもこのオルガンの写真があります。
ルターハウスにもリュートやギターなどの楽器が展示されていたようにルターは音楽を
好み、家族と楽しむ一方でたくさんの讃美歌を作りましたが、後にバッハが
教会カンタータを作曲する時に採り入れたものがかなりあるといわれて
います。
下の2枚の写真は聖ゲオルグ教会の内部とバッハ受洗のプレートです。
このあと、近くのチューリンゲン博物館を見て、1時間ほど市内を散策してホテルに
戻りました。


2.アルンシュタットからエアフルトへ  
アイゼナハに2泊してからエフハルトへ向かいました。アイゼナハからエアフルト
へは特急で30分足らずです。エアフルト駅のインフォメーション(案内所)で
今日の目的地、アルンシュタットへの行き方を教えてもらいました。
アルンシュタットの街の案内パンフレットも貰うことが出来たので大助かりです。
アルンシュタットへはエアフルトからローカル線(EB:エアフルト鉄道)で15分です。

アルンシュタットは青年期のバッハが18歳で街の新教会のオルガニストとして音楽家と
しての活動を開始したところです。ここの市庁舎前広場には青年バッハの像があります。

駅前に出るとタクシーで5分ほどでバッハ像の前につきます。ここのバッハ像は
「偉大な」という形容詞にぴったりの立派なものであるのに対して、若々しく
ユーモラスで、この街に3年ほどいた間にいくつかのトラブルを起こしたという、
青年バッハの荒削りな姿が伺われて微笑ましいものです。
市庁舎隣の案内所で街の地図を手に入れて、すぐ傍のバッハ教会(バッハ当時の
新教会現在名)のオルガンはバッハの赴任直前に作られ、試奏を頼まれたバッハが
その縁でオルガニストになったという由緒のあるものです。
教会の内装にマッチした綺麗なオルガンを写真に撮らせてもらいました。
教会の人はとても親切で、祭壇前のベンチにしばらくジィーと座っていると、
日本語で書かれた、教会とオルガンそしてバッハの足跡を記した説明書のコピーを
持ってきてくれました。ここのオルガンでの演奏が収録された2枚のCDがあると
いうので、それを購入して教会の外に出ました。教会の周りをひと回りしてみると
外観もどっしりした立派な教会です。ちょうどお昼の時間になりましたので、近くの
郷土料理レストランでお奨めのチューリンゲン風焼きソーセージにマッシュポテトと
ザワークラウトを食べて、時間の許すまで街を歩きました。
最後にお城の博物館でバッハ関連の展示を見ました。説明によると先ほど市庁舎前の
広場で見た青年バッハ像は1985年のバッハ生誕300年祭にお披露目されたようです。
博物館にはこのほか、この地方の生活や文化を示す展示物が豊富にありました。
この街に来た時はタクシーで旧市街地へ連れて来てもらいましたが、それほど大きな
街ではないことが分かりましたので、帰りは地図を見ながら歩いて駅に戻りました。  
再びエアフルトの駅に着いたのは午後4時過ぎでした。
エアフルトはチューリンゲン州の中心都市で古くから商業で栄えた街だということです。
その象徴がクレーマー橋で、橋の上、通りの両側に店が並んでいる珍しい造りです。
ホテルからすぐのところにあるそのクレーマー橋を渡ったところに市庁舎があり、
その前はフィッシュ・マルクト広場です。広場に面した建物の1階はレストランが
並んでいて、店の前のテラスにテーブルが置かれています。
フィッシュ・マルクトからさらに10分ほど歩くと大聖堂の前のドーム広場に出ます。
このあたりがエアフルトの中心です。
エアフルトの第2日目はホテルのそばのアンガー広場から街歩きをスタート。
アンガー広場からクレーマー橋の上流の橋を渡ってフィッシュ・マルクトへ出て、左に
曲がると大聖堂のドーム広場に着きます。ドームと呼ばれる大聖堂は正式には聖マリア・
カソリック大聖堂という名前です。もうひとつの巨大な教会、聖セベリオ教会が大聖堂の
右側に並んで建っているのはエアフルトの街の景色の中でも壮観です。ともに公開されて
いるので、中に入ってその威容を目に焼き付けました。ドーム広場には横断幕が
掲げられていて「クレーマー橋祭り」と書かれています。



さきほどの大聖堂に入るとき見かけた「グロリオサ見学ツアー」に
行って見ることにしました。グロリオサというのは大聖堂の塔の上にある大きな鐘で、
鐘を揺らして中の振子で音を出す方式の鐘の中では世界一の大きさであるといいます。
いまは古くなったため、特別の日だけ鳴らされるそうです。
直径が2m半もあるような大きな鐘で案内の人がこぶしで叩くと、「グォ〜ン」と
鈍い音がしました。大聖堂の後ろにはペータースブルグという大要塞があります。
ここへ登るとエアフルトの街が一望のもとに見渡せます。
夕食に出かけたのはホテルで教えてもらった、旧市街とは反対の街を丸く包み込む
外周道路に面したチュービンゲン料理のレストラン。ホテルからは歩いて10分も
掛らないところですが、その外周道路(リングと呼ばれています)の傍にに小さな
広場があって、何やら胸像のようなものがありJURI GAGARINと記されていました。
旧ソビエト連邦が飛ばした宇宙船に乗った、あの人類初の宇宙飛行士です。
もう一度地図をよく見ると、いま渡った外周道路には「ガガーリン通り」という
名前が付いていました。エアフルトのあるチューリンゲン州は旧東ドイツであった
ことを改めて実感しました。15年前に初めてフランクフルトからドレスデン行きの
特急でライプツィヒに向かった時、旧東ドイツに入ると景色がモノクロに変わった
ような印象を受けたのを覚えています。いまは復興が進んでおり、ドイツ国内の他の
地域と比べてもそん色ありません。

3.ワイマルからライプツィヒへ  
エアフルトに2泊してライプツィヒへ戻る途中、ワイマルへ立寄ることにしていました。
ワイマルといえば多くの方がゲーテの名を思い浮かべるのではないでしょうか。



昨年、フランクフルトで訪ねたのはゲーテの生家でした。
ワイマルで長年にわたって宰相を勤めたゲーテはこの地で1832年に亡くなっています。
エアフルトからワイマルまでは鉄道で15分の距離です。
ワイマルの駅でタクシーに乗ってゲーテハウスまで曲がりくねった道を走りゲーテハウス
の前で下車。ゲーテハウスに入館すると、電話の受話器型の音声装置を渡されますが、
日本語はないので英語を選んで、館内の部屋ごとに表示された番号を押すと説明が
流れて来ます。ワイマルの宰相として活躍したゲーテの公式な応接スペースの他、
数々の名作が生まれた書斎、図書室、家族の部屋を順に巡って行き、最後に寝室に
至ります。ここがゲーテが「もっと光を!」という有名なことばを残して生涯を
終えた部屋です。
ゲーテハウスの前の道を少し行くと市庁舎の前のマルクト広場に出ます。
ここの案内所で絵はがきになった街の地図を買って、それを見ながらゲーテと
シラー、二人の像があるという国民劇場前を目指して歩きはじめましたが、どこかで
完全に道に迷ってしまいました。
ひとに尋ねながらなんとか二人の像にたどりついて、改めて地図を見ると、かなり先まで
歩いてしまったようです。


ワイマルではこの後、シラーの住んだ家(シラーハウス)を見て、ワイマル城の
美術館を訪ねました。お城は市内を流れる小川に沿った公園に面していて、鴨の群れが
憩う自然豊かな所にあります。その公園の中にはゲーテの山荘がある筈です。
あらかじめ目を付けておいた、市庁舎前の広場に面した老舗ホテルのテラスで
ゆっくりと昼食を摂り、ゲーテハウス前まで歩いてタクシーで駅に戻りました。
ワイマルの街でもバッハに出会いました。市庁舎前に戻るために歩いて
いて通りかかったバッハの胸像の傍、反対側の家の壁に「ここに建っていた家にJ.S.Bachが
1708年〜1717年まで住み、そこで1710年にFriedemann Bachが、
1714年にPhillip Emanuel Bach(ともにバッハの息子で音楽家)が生まれた」と書いて
あるのを偶然見つけました。


ワイマルからライプツィヒへは特急で1時間と15分ほどです。
聖トーマス教会のあたりはいつも人で賑わっています。
夕方6時から聖トーマス教会で行われる音楽祭最後のプログラム「ミサ曲ロ短調」を
聴くことを楽しみに時間まで菩提樹の木陰のバッハ像と向かい合うお店に入りました。
日本風にいうとバッハ亭とでも呼べるような名前の付いたレストランのテラスに座って、
この季節が旬の白アスパラガスにハムとジャガイモが添えられたお皿を頼んで、
バッハ像に向かって乾杯し、チューリンゲンの旅を振り返りました。


 

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お城見学「ニュンフェンブルク宮殿&公園」

ニュンフェンブルク宮殿&公園

宮殿と公園の調和のとれた ヨーロッパ屈指の傑作です。
バイエルンの生ける「歴史書」であると同時に、建築と造園が絶妙な
ハーモニーで結びついているのです。
もし、子供の誕生祝いが全てこれほど美しいものなら!
バイエルン選帝侯フェルディナンド・マリアは、待望の皇太子誕生に喜び、
妃のサヴォア公アデレーデに土地を贈りました。 それは1663年のことで、
ヴィッテルスバッハ家の選帝侯妃にしてサヴォア公だったヘンリエッテ・
アデレーデは、自身のために庭園を備える夏用の小さなヴィラを建てました。
これがニュンフェンブルク宮殿の前身です。 18世紀初頭には、 ギャラリーで
接続された居住パビリオンが両側に追加され、ファサードが「フランス風」に
リフォームされて、簡素な宮殿はエレガントで広大な夏の離宮に生まれ
変わりました。

今日ニュンフェンブルク宮殿を見学すると、ある意味バイエルンの歴史を
体験することになります。
2世にも及ぶ歴史の中で、バイエルンの選帝侯や国王たちがここに
足跡を残しているからです。 完璧なバロック施設を構成する要素をご紹介
しましょう。
バーデンブルクは、暖めることができる、初めての近代「スイミングホール」
です。ロココ様式による銀青色の狩猟用離宮アマリエンブルクは、独特な
豪華さの中に、夥しいほどの繊細で感嘆に値するディテールを持ち合わせて
います。

ニュンフェンブルク宮殿の北翼には、人と自然の博物館があります。
ここでは、地球と人類の歴史をたどるタイムトラベルを体験できます。
エクスカーション ミュンヘンのホーフガルテンは、アルプス以北で最大の
ルネッサンス庭園に数えられています。 ホーフガルテンの北東部には、
直接イギリス庭園へ接続している、散歩道があります。 ミュンヘン北部、
シュライスハイム宮殿敷地内のルストハイム宮殿には、古いマイセン陶磁器の
世界的に有名なコレクションがあります。 ミュンヘンの南方に位置する、
シャッヘンの「国王の山荘」は、国王ルートヴィヒ2世が山岳部に滞在する
際の避難所として利用していたもので、アルプスガーデンが併設されています。
山荘の下には、1900年に植物園のアルプスガーデンが造られています。

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スイスからHenrry一家がご来福「その1」

スイスからHenrry一家がご来福!

今を去ること42年前イギリスB'mouthで共に学んだ仲間がスイスから来福!

スイスチューリッヒ在住「ヘンリー一家」を10/14-21迄の8日間福岡県を中心に

見処をご案内しました。

その時の写真とコメント第1部! 10/14-10/16

10月14日(金)福岡空港到着=ホテル到着後博多の夜を散策!

福岡空港到着香港エクスプレスAU163117:20と弊社訪問

IMS松浦」で新鮮なお刺身挑戦と「屋台なかちゃん」体験!

ソラリア・スカイダイニングで博多の夜景で乾杯!

10月15日(土)博多の街を観光バスでお楽しみ後、櫛田神社散策!

Tommy宅でウエルカムパーティ!

10月16日(日)「大宰府」終日観光

梅が枝餅と大宰府観光

 

風光明媚な「光明善寺の庭園」巡りと「水月亭」での昼食

210/17-10/21迄のご案内は、次ページでご紹介!

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スイスからHenrry一家がご来福「その2」

スイスからHenrry一家がご来福!

210/17-10/21迄のご案内!

その時の写真とコメント第2部!

1017日(月)柳川観光と川下り&ウナギ料理を楽しむ!

 

1018日(火)唐津&糸島ドライブ+海の幸を楽しむ!

鏡山から唐津湾の景観鑑賞!

見返りの滝見学

唐津城見学

唐津長崎荘で海鮮料理を楽しむ!

唐津くんち博物館訪問

夕暮れの「二見が裏海岸」をドライブ

 1019日(水)終日自由行動 ※キャナルシティやショッピングを楽しむ!

夕食は、田舎料理「八女本家」で日本酒と田舎料理を楽しむ。

1020日(木)湯布院で温泉を楽しみ別府地獄温泉を探訪!

金鱗湖散策と湯布院散策

湯布院食事処「八遇来」にて昼食と温泉を楽しむ!

地獄温泉巡り!

夕食は、イタリアレストラン「ミッシェル」

1021日(金)帰国日 ※12:50発福岡空港発国内線で屋久島へ。

屋久島観光後、帰国!

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絵画の旅「ルーヴル美術館のムリリョ」
ルーヴル美術館のムリリョ

Bartolome Esteban Murillo (1617-82)

スルバラン、ベラスケスがリアリズムの頂点を極めたあとに続く、
17世紀セビーリャの巨匠。ラファエロの甘美さ、ルーベンスの
豊穣さをあわせ持ち、スルバランを追い越す勢いで、民衆の
圧倒的人気を得た。


スペインの巨匠には、ベラスケスやゴヤ、ピカソなどたくさんの有名な画家が
いますが、私が好きなのはセビリヤで生まれ育ったムリリョを紹介します!
MURILLO,Bartolome Esteban 
彼の絵画を最初に見たのは、マドリッドのプラド美術館にあった「受胎告知」
です。 ルーヴル美術館にもイタリア絵画のギャルリーを過ぎたところに
スペイン 絵画のギャルリーがあって、そこにはいつかのムリリョの絵画が
展示され ています。
  
ムリリョは長い間、ヨーロッパの画家の巨匠として仲間に加えられ た唯一の
スペイン画家でした。彼は生存中から賞賛され、ついであらゆる 収集家の的と
なり、多くの画家たちから賛辞を受けました。
その名声は、ルーヴルでは、1869年に美術館のギャルリーのためにムリリョの
胸像を注文したくらいです。ルーヴルでの彼の多数の収蔵品からその重要性と
多様性を理解することができます。 厳しい節度がスペイン絵画の特徴であった
ような時代に、タッチに 比類のない甘味さをみせる彼の芸術は、同時代の画家
たちにとって、霊感源と なる完全な手本となりました。  
実際、ディエゴ・デ・ベラスケス(1599-1660)やフランシスコ・デ・スルバン
(1598-1664)のような画家が、故国や愛好家の枠を超えて評価されるのは、
19世紀末まで待たなければならないのですが 1660年代からムリリョの作品は
静かさと甘味さへと向かい、その時代から 彼の全作品の特徴となりました。 
マドリードでの短期間の滞在のさいに、 王室コレクションで研究することが
できた巨匠たちの作品が、彼の色づかいと タッチを変えていっそう豊かさを
もたらしました。 彼のすべての作品を通して見られる宗教感情は、それまでの
スペイン絵画が 表現してきたものとは非常に異なった形で現れてきます。
  
彼が生まれたのは スペインのセビリヤの町で、そのために彼の生涯のほとんど
の仕事はセビリヤで 行われたと言ってもよいでしょう。
ルーヴル美術館にある「聖母の誕生」(上の写真)は、セビリヤ大聖堂の聖
パウロ礼拝堂のために1660年に描かれましたが、マリアのエピソードである
と同時に家族の 親密な場面でもあります。明暗表現は透明感のあるタッチで
和らげられ、産湯につけられた幼子の周りの活気が、人間的な暖かみを
添えています。 1665年にサンタ・マリア・ラ・ブランカ聖堂のために
描かれた「6人の人物が いる無原罪のお宿りの出現」は、当時建設された
この新しい聖堂を飾るために注文されました。
  
ルーヴルの収蔵品は、1855年にナポレオン3世によって 寄贈された
無原罪のお宿りをテーマにした小さなエスキースがあります。
「聖家族」、通称「セビリヤの聖母」は、一般に1665〜70年に描かれたと
考えられていますが、ムリリョの作品で非常に高く評価された瑞々しい甘味さを
完全に表現しています。 
ルーヴルの彼の全絵画作品のなかで、最も流麗で 優雅な作品であり、
磔刑を予告する細い十字架を差し出す 洗礼者ヨハネがこの地上の幸福を
弱めているにしても、その幸福感は最も満ち 足りたものとなっています。
※ルーブル美術館資料、及びセ―ヴィル工場19世紀のステンドグラスから抜粋。

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こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」

こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」


Royal Crescent Hotel 16 Royal Crescent,Bath, BA1 2LS, イギリス
ザ ロイヤル クレセントのサービスで、贅沢なひとときを
バースのロイヤル・クレセントにある壮麗な5つ星ホテルで、設備の整ったジム、
美しいランドスケープガーデンへと繋がる素晴らしいスパ、受賞歴のある
レストラン、カクテルバーを提供しています。スパにはリラクゼーションプール、
プランジタブ、ジム、サウナ、スチームルームがあり、ESPA
トリートメント、
CNDのシェラック(ネイルポリッシュ)を含む様々なトリートメントも
楽しめます。
The Royal Crescentの客室は18世紀のスタイルの内装で、豪華なベッド、花、
無料Wi-Fi
当時の芸術家の絵画(ゲインズバラを含む)が備わります。
Dower House(レストラン)、The Montagu(バー)では食事、カクテル、
シャンパンを終日用意しており、美しい庭園では伝統的なアフタヌーンティーを
楽しめます。

Bath House Spaはオリジナルの馬車宿と厩舎内にあります。
1775
年築のグレードI
指定建造物を利用しており、市内中心部、ポンプ・
ルーム・バス、シアター・ロイヤルまで徒歩15分、バース・スパ駅まで
わずか1.6kmです。
イングランド西部のバースは温泉が出る街として人気のある観光地です。
その歴史を遡ると、紀元前から1
〜2
世紀頃にかけてまず街を築いたのは
ケルト人やローマ人ですが、現在のまちなみが形成されたのはおおむね1
8世紀のこと。この世界遺産に登録されるほど美しいまちなみを象徴する
建築が、サーカスとロイヤル クレセントというふたつの集合住宅です。
特に後者、イオニア式の列柱に飾られた半楕円形の建物、その形に
抱かれるように広がる芝生と青空、そして芝生でくつろぐ人々…
この光景を目の当たりにすると、ロイヤル クレセントこそ世界で最も
美しい集合住宅だという評価が過言ではないと共感していただけるでしょう。

1泊お1人様 50,000円〜
お手配は,☎092−725−9090 EUROPE SPECJALIST 

 

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絵画の旅「優雅な神話画の画家、フランソワ・ブーシェ」

優雅な神話画の画家、フランソワ・ブーシェ
ルーヴル美術館に行くととても奇麗なフランソワ・ブーシェの描いた神話の
絵画が幾つかあります。



フランソワ・ブーシェ(1703-1770)の華々しい生涯を思い起こし、彼の作品の
多様性と多彩さを確かめるとすると1720年代パリに滞在したヴェネティアの画家
セバスティアーノ・ルッチとジョヴァニ・アントニオ・ペレグリーニ、および
フランソワ・ルモラースから優雅で流麗な構図と、彼の成功をもたらすことになった
明るく輝かしい色彩に対する感覚を身につけたブーシェは、ルモラースのモトニ 短期間
学んだ後、版画で研きを積み、美術アカデミーの準会員となります。 1731年から、
数々の称号や役職を持ち1734年に歴史画家として正会員となり、 1735年には助教授と
なってヴェルサイユ宮殿の女王の居室のために最初の公的な 注文を受けています。


優雅な神話画
彼は生涯にわたって、女性を賛美した優雅な暗示的内容がかなり
強調された 物語の主題に強い愛着を示していました。
1734年、アカデミー入会のために タッソーの「開放されたエルサレム」から
取った文学的主題である「リナルドと アルミーダ」を描いた作品を提出しましたが、
同僚たちとは異なり、キュロスや アキレウス、イアソンを介して偉大なジャンルで
頭角をあらわすような古代の 歴史教訓的な主題をけっして描こうとはしませんでした。
女性的要素が最も重要な位置を占めるテーマを重視して、オリンポスの神々の 神話と
同一のエピソードをためらうことなく描きました。
1732年から1757年の間の作品「ウルカヌスの鍛冶場」の4点のヴァージョンがあります。
1757年の大作はゴブラン製作所によって「神々の愛」のタピスリーとするためのもの
でしたが、  ブーシェはアキレウスとの間に生まれた不義の息子アイネアスのために、
自らの魅力で夫の ウルカヌスに武器を作らせることに成功したヴィーナスの肉体に賛辞を
捧げています。 審美的規則を尊重して、彼は鍛冶場の神の赤銅色の肉体に女神の乳色の肌を
対比させ女神の美しい身体は同じような魅力を持ったモデルに基づいていて、彼はその
モデルとともに デッサンの習作を数多く手がけています。


この神話は、官能的表現を示すことが多く、神々が狙いを定めた者を誘惑するために
用いる策略を明らかにしています。
まるで演劇ででもあるかのように、ブーシェは仮装や変身に愛着を抱いてユピテルは
「エウロペの捕獲(1747)」を行うために、白い力強い雄牛の姿で現れています。


果樹園の神ヴェルトゥムヌスは、ボモナに愛人を迎えるように説得するために老婦人に
変装します。曲線的で、また装飾的なリズムの構図がもたらす物憂いげな魅力の女神
たちに慣れ親しんだブーシェは、名人技のタッチと非常に清新な色彩の助けを借りて、
神話の優雅な
テーマを描き、当時の絵画を一層鮮明な官能性の方向へと導びきました。

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セントマイケルズ‐マウント(St. Michael's Mount)

セントマイケルズ‐マウント(St. Michael's Mount)

英国イングランド南西端、コーンウォール州の都市ペンザンスの東約 5キロメートル、マイケル湾に
ある島。干潮時には本土と地続きになる。
11世紀に礼拝堂が創建、12世紀に ベネディクト派修道院になった。
中世にサンティアゴ‐デ‐コンポステラへの巡礼路として栄えた レイラインの起点で
「セント・マイケルズ・マウント」からこの 不思議の道を辿って行く海に浮かぶ小さな島セント・
マイケルズ・マウント。島の上には小さな城と礼拝堂が立ち並び、非常に神秘的な雰囲気に
まれています。島に繋がる石畳の道は潮の満ち引きによって道が完全に閉ざされてしまうそう
ですが、 さて、みなさん以前どこかで似たような島をご覧になったことはありませんか?


解答は、そう、フランスのモン・サン=ミシェル。 モン・サン=ミシェルはフランス語ですが、
実はこれを英訳するとSt. Michael’s Mount、 つまり似たような二つの島に全く同じ名前が
付けられていることになります。
興味深いのは、フランスのモン・サン=ミシェルもまた別のレイライン上に 位置し、しかも
そのレイラインの延長線上にイギリスのセント・マイケルズ・マウントが 位置していること。
これは偶然なのか、それとも意図されたことなのか、非常に気になりますね。
セント・マイケルズ・マウント(Saint Michael’s Mount)はモン・サン=ミシェルと 同様に
1000年前に建てられた修道院でした。 モン・サン=ミシェルはフランスの北海岸にありますが、
セント・マイケルズ・マウント はイギリスの南海岸にあります。
そして、これらの修道院は直線上にあります。つまり、モン・サン=ミシェルから船に 乗って、
真北に行くと、イギリスのセント・マイケルズ・マウントに到着するのです。


セント・マイケルズ・マウントも小島に建っていて、干潮時にはその小島から本土へと
繋がる土手道があり、満潮時にはそれが隠れ完全な島となります。
このセント・マイケルズ・マウントには尖塔がないので、修道院よりお城のような外観です.
そしてそれはこの島の波乱に富んだ歴史を反映しています。 セント・マイケルズ・マウントは
修道士によって作られましたが、歴史を通して 修道院は接収され、胸壁が加えられ、数台の
大砲もあります。しかし、この半分砦で半分修道院という建物はとても魅力的な場所と言えます。

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絵画の旅「マリー・アントワネットのお抱え女流画家エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン」
マリー・アントワネットのお抱え女流画家 ルーヴル美術館
有名な女流画家は、マリー・アントワネットのお抱え女流画家。
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

Elisabeth-Louise Vigee Le Brun 1755年4月16日 - 1842年3月30日)
18世紀の最も有名なフランス人女流画家。 画家ヴィジェの娘としてパリで
生まれ親から絵画教育を受け、当時の大家たちから の助言を受けた 彼女は,
10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていました。
1776年に、画家で画商であるジャン・バティスト・ピエール・ルブランと
結婚しました。 多くの貴族の肖像画を描いて、画家として成功しました。
そして、マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に
招かれ、 次の数年間は、ヴィジェ・ルブランは王妃や子供たち、王族や
家族の肖像画を 数多く依頼され、王妃を満足させました。  
1783年3月31日、ヴィジェ・ルブランはフランスの王立絵画彫刻家
アカデミーの 会員に、歴史画家として迎えられました。 また女流画家
アデライド・ラビーユ・ギアールも同じ日に入会が認められました。
 ヴィジェ・ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを
管理する 男性たちに反対されましたが、結局、彼らの主張はルイ16世の
命令によって 破棄されました。
マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力を
かけたからで あります。

同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーでは
なく、女性同士が比較される事は当然の事だったのです。
フランス革命の最中に王族が逮捕された後、ヴィジェ・ルブランは革命で
顧問客を失い、 彼女自身も逃亡しなくてはならなくなってしまい、
数年間をイタリア、オーストリア、 ロシアで生活して、画家として
働きました。 そこでは貴族の顧客を扱った事が、それまでの経験がとても
役立ちロシアでは貴族たち から歓迎され 女帝エカチェリーナ2世の皇族
一員を多数描きました。  
ロシア滞在中にヴィジェ・ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの
会員と なりました。  
第一帝政期にヴィジェ・ルブランはフランスに戻りましたが、また、
イギリスを訪れ バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描きました。
1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の
肖像画を 描きましたが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年には
スイスに赴き、 ジュネーヴの Societe pour l,Avancement des Beaux-Arts の
名誉会員と なりました。
フランスが王政復古するとルイ18世は、彼女を手厚く迎えてフランスを
安住の地としました。
彼女はご存知のように王妃マリー・アントワネットのお抱え宮廷画家 だったので、
ヴェルサイユ宮殿を訪れると彼女が描いたたくさんの絵画に出会えると 思います。

マリーアントワネットそして、とても有名な「マリー・アントワネットと子供たち」の絵画
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ルネ・ラリックの世界(René Lalique)
ルネ・ラリック(René Lalique)  LALIQUE ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコ期を代表する宝飾デザイナー
ルネ・ラリックによって創設された光と影の芸術をハンドメイド クリスタルで
表現するフランスのブランド「ラリック」。


その特徴は、花や樹木、昆虫、動物、神秘的な女性像などを題材とし、 フロステッド
といわれる艶消し技法を使ったレリーフによる装飾表現です。
フランス語でサティナージュと呼ばれるこのテクニックにより、光は単純 に透過する
ことなく内部にこもってから柔らかに反射されるため、赴き あふれる陰影が生まれます。
深い白色のトーンから透明に近い仕上げまで、 多彩なフロステッド加工において
ラリックは世界最高の技術を誇ります。
1860年4月6日 - 1945年5月1日)は、19世紀〜20世紀のフランスのガラス 工芸家、
宝飾ジュエリー)デザイナー。
アール・ヌーヴォー、アール ・デコの両時代にわたって活躍した作家。


前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、
その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いて
いたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎて からである。
1860年、フランス、シャンパーニュ地方マルヌ県アイ村に 生まれ、パリで育った。
1876年、パリの装飾美術学校に入学し、宝飾工芸家 で金属細工師のルイ・
オーコックに師事し、装飾の技術を習い、夜はパリの 装飾美術学校で学んだ。
その後1878年から1880年までイギリスに滞在しサイデナム・カレッジで学んだ。
                


パリに帰ったラリックは、1882年頃からフリーランスの宝飾デザイナーおよび
グラフィック・ーティストとして活動しはじめ、1885年にはパリの ヴァンドーム
広場にアトリエを構えるまでになった。
この頃のラリックは、 おもに女性向けの高級アクセサリーをデザインしていた。
カルティエなどの 著名な宝飾店にも作品を提供し、当時の高名な女優サラ・
ベルナールも顧客であった。
1897年、レジオンドヌール勲章を受章。
1900年のパリ万国博覧会では宝飾作品が大きな注目を集め名声を得た。 

                   
ラリックは1892年頃から宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れていたが、
本格的にガラス工芸の道へと進んだのは、ファッションの流行がボリューム
あるふくよかな服装からシンプルなラインを強調するスタイルに移った ため、
派手な装飾がある宝飾品が売れなくなったからといわれる。
実際に1905年頃を境にしてラリックのジュエリーは人気凋落が著しく、
評論家たちは手のひらを返したようにラリック作品に「陳腐」「悪趣味」 と
いった悪評を浴びせかけた。
1908年、ラリックはコティの注文により、香水瓶とラベルのデザインをした。
優美なデザインの瓶に香水を詰めて販売するというのは、当時においては 斬新な
試みであった。
同じ1908年、ラリックはパリ東方のコン=ラ=ヴィルに あったガラス工場を借り
(のちに購入)、本格的にガラス工芸品の生産を始めた。 1918年にはアルザス
地方のヴァンジャン=シュル=モデール(フランス語版) に新たな工場の建設を始め、
1922年(1921年とも)年に完成した。
これが、21世紀の今日まで続くラリック社の起源である。



1912年に宝飾品の展示会を開いた後、ガラス工芸品の製造に専念するように なった。
香水瓶、花瓶、置時計、テーブルウェア、アクセサリーなどを手がけ、 1920年代頃か
らはラスの分野で再び人気作家の地位を取り戻した。 1925年のパリにおける現代装飾
美術・産業美術展では、ラリックのために 1つのパビリオンが与えられた。
時流に沿って幾何学的構成の文様や器形を 採用するようになり、アール・デコ様式の
流行の一翼を担ったとされる。 1920年代から1930年代のラリックは、「パリ号」
「イル=ド=フランス号」 など大西洋横断航路の豪華客船やオリエント急行の客車などの
インテリア (ダイニングルームなどのガラス天井、装飾パネル)を担当した。
また、レストラン、ホテル、邸宅などの装飾、ステンドグラス、噴水など、 さまざまな
分野に活躍の場を広げた。
シボレーやジャガー、ロールス・ロイス などのカーマスコット(自動車のボンネット
先端に付けた装飾)作品も多数ある。 日本との関係では、1932年に旧皇族朝香宮邸
(現・東京都庭園美術館)の ガラスの扉やシャンデリアなどの製作を受注している。
1945年に亡くなるまで ラリックは数多くの作品を発表したが、晩年はリューマチが
悪化してデッサン が描けなくなった。


20年代から娘のスザンヌがデザインを手がけたものも ラリックの名前で発表された
ので作風に相当な幅が見られる。 事業は息子のマルクが継ぎ、近年までラリックの
孫娘であるマリー=クロード が経営とアートディレクションを になっていたが、
マリーは1994年に ラリック社の株を売却。血縁者による経営は終わりを告げた。
ラリック社は現在、化粧品や香水の容器を製作するポシェ社の傘下に入っている。
また、日本法人のラリック株式会社は、2005年7月31日付けで会社を清算している。
ラリックのガラス工芸品には、動物、女性像、花などアール・ヌーヴォー時代に 好まれた
モチーフが多く見られる。素材としては乳白色で半透明のオパルセント・ グラス(en)を
好んで用いた。これは、光の当たり方によって色合いが微妙に変化 するものである。
1920年代中頃からは色ガラスの作品も増えるが、色ガラスを使う 場合も単色で用いる
ことが多かった。技法的には、鋳鉄製の型を使った型吹き 成形およびプレス成形による
ものが多い。
「型吹き成形」:鉄製の凹型に溶けたガラスを空気圧で押し込むもの                     
「プレス成形」:凹型と凸型を用い、凹型に流し込んだガラスを凸型で押さえる もの               
これらの工程は機械化され、大量生産に対応していった。





 
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