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絵画の旅「ルーヴル美術館のムリリョ」
ルーヴル美術館のムリリョ

Bartolome Esteban Murillo (1617-82)

スルバラン、ベラスケスがリアリズムの頂点を極めたあとに続く、
17世紀セビーリャの巨匠。ラファエロの甘美さ、ルーベンスの
豊穣さをあわせ持ち、スルバランを追い越す勢いで、民衆の
圧倒的人気を得た。


スペインの巨匠には、ベラスケスやゴヤ、ピカソなどたくさんの有名な画家が
いますが、私が好きなのはセビリヤで生まれ育ったムリリョを紹介します!
MURILLO,Bartolome Esteban 
彼の絵画を最初に見たのは、マドリッドのプラド美術館にあった「受胎告知」
です。 ルーヴル美術館にもイタリア絵画のギャルリーを過ぎたところに
スペイン 絵画のギャルリーがあって、そこにはいつかのムリリョの絵画が
展示され ています。
  
ムリリョは長い間、ヨーロッパの画家の巨匠として仲間に加えられ た唯一の
スペイン画家でした。彼は生存中から賞賛され、ついであらゆる 収集家の的と
なり、多くの画家たちから賛辞を受けました。
その名声は、ルーヴルでは、1869年に美術館のギャルリーのためにムリリョの
胸像を注文したくらいです。ルーヴルでの彼の多数の収蔵品からその重要性と
多様性を理解することができます。 厳しい節度がスペイン絵画の特徴であった
ような時代に、タッチに 比類のない甘味さをみせる彼の芸術は、同時代の画家
たちにとって、霊感源と なる完全な手本となりました。  
実際、ディエゴ・デ・ベラスケス(1599-1660)やフランシスコ・デ・スルバン
(1598-1664)のような画家が、故国や愛好家の枠を超えて評価されるのは、
19世紀末まで待たなければならないのですが 1660年代からムリリョの作品は
静かさと甘味さへと向かい、その時代から 彼の全作品の特徴となりました。 
マドリードでの短期間の滞在のさいに、 王室コレクションで研究することが
できた巨匠たちの作品が、彼の色づかいと タッチを変えていっそう豊かさを
もたらしました。 彼のすべての作品を通して見られる宗教感情は、それまでの
スペイン絵画が 表現してきたものとは非常に異なった形で現れてきます。
  
彼が生まれたのは スペインのセビリヤの町で、そのために彼の生涯のほとんど
の仕事はセビリヤで 行われたと言ってもよいでしょう。
ルーヴル美術館にある「聖母の誕生」(上の写真)は、セビリヤ大聖堂の聖
パウロ礼拝堂のために1660年に描かれましたが、マリアのエピソードである
と同時に家族の 親密な場面でもあります。明暗表現は透明感のあるタッチで
和らげられ、産湯につけられた幼子の周りの活気が、人間的な暖かみを
添えています。 1665年にサンタ・マリア・ラ・ブランカ聖堂のために
描かれた「6人の人物が いる無原罪のお宿りの出現」は、当時建設された
この新しい聖堂を飾るために注文されました。
  
ルーヴルの収蔵品は、1855年にナポレオン3世によって 寄贈された
無原罪のお宿りをテーマにした小さなエスキースがあります。
「聖家族」、通称「セビリヤの聖母」は、一般に1665〜70年に描かれたと
考えられていますが、ムリリョの作品で非常に高く評価された瑞々しい甘味さを
完全に表現しています。 
ルーヴルの彼の全絵画作品のなかで、最も流麗で 優雅な作品であり、
磔刑を予告する細い十字架を差し出す 洗礼者ヨハネがこの地上の幸福を
弱めているにしても、その幸福感は最も満ち 足りたものとなっています。
※ルーブル美術館資料、及びセ―ヴィル工場19世紀のステンドグラスから抜粋。

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こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」

こんなホテルに滞在したい「ザ・ロイヤル クレセント ホテル」


Royal Crescent Hotel 16 Royal Crescent,Bath, BA1 2LS, イギリス
ザ ロイヤル クレセントのサービスで、贅沢なひとときを
バースのロイヤル・クレセントにある壮麗な5つ星ホテルで、設備の整ったジム、
美しいランドスケープガーデンへと繋がる素晴らしいスパ、受賞歴のある
レストラン、カクテルバーを提供しています。スパにはリラクゼーションプール、
プランジタブ、ジム、サウナ、スチームルームがあり、ESPA
トリートメント、
CNDのシェラック(ネイルポリッシュ)を含む様々なトリートメントも
楽しめます。
The Royal Crescentの客室は18世紀のスタイルの内装で、豪華なベッド、花、
無料Wi-Fi
当時の芸術家の絵画(ゲインズバラを含む)が備わります。
Dower House(レストラン)、The Montagu(バー)では食事、カクテル、
シャンパンを終日用意しており、美しい庭園では伝統的なアフタヌーンティーを
楽しめます。

Bath House Spaはオリジナルの馬車宿と厩舎内にあります。
1775
年築のグレードI
指定建造物を利用しており、市内中心部、ポンプ・
ルーム・バス、シアター・ロイヤルまで徒歩15分、バース・スパ駅まで
わずか1.6kmです。
イングランド西部のバースは温泉が出る街として人気のある観光地です。
その歴史を遡ると、紀元前から1
〜2
世紀頃にかけてまず街を築いたのは
ケルト人やローマ人ですが、現在のまちなみが形成されたのはおおむね1
8世紀のこと。この世界遺産に登録されるほど美しいまちなみを象徴する
建築が、サーカスとロイヤル クレセントというふたつの集合住宅です。
特に後者、イオニア式の列柱に飾られた半楕円形の建物、その形に
抱かれるように広がる芝生と青空、そして芝生でくつろぐ人々…
この光景を目の当たりにすると、ロイヤル クレセントこそ世界で最も
美しい集合住宅だという評価が過言ではないと共感していただけるでしょう。

1泊お1人様 50,000円〜
お手配は,☎092−725−9090 EUROPE SPECJALIST 

 

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絵画の旅「優雅な神話画の画家、フランソワ・ブーシェ」

優雅な神話画の画家、フランソワ・ブーシェ
ルーヴル美術館に行くととても奇麗なフランソワ・ブーシェの描いた神話の
絵画が幾つかあります。



フランソワ・ブーシェ(1703-1770)の華々しい生涯を思い起こし、彼の作品の
多様性と多彩さを確かめるとすると1720年代パリに滞在したヴェネティアの画家
セバスティアーノ・ルッチとジョヴァニ・アントニオ・ペレグリーニ、および
フランソワ・ルモラースから優雅で流麗な構図と、彼の成功をもたらすことになった
明るく輝かしい色彩に対する感覚を身につけたブーシェは、ルモラースのモトニ 短期間
学んだ後、版画で研きを積み、美術アカデミーの準会員となります。 1731年から、
数々の称号や役職を持ち1734年に歴史画家として正会員となり、 1735年には助教授と
なってヴェルサイユ宮殿の女王の居室のために最初の公的な 注文を受けています。


優雅な神話画
彼は生涯にわたって、女性を賛美した優雅な暗示的内容がかなり
強調された 物語の主題に強い愛着を示していました。
1734年、アカデミー入会のために タッソーの「開放されたエルサレム」から
取った文学的主題である「リナルドと アルミーダ」を描いた作品を提出しましたが、
同僚たちとは異なり、キュロスや アキレウス、イアソンを介して偉大なジャンルで
頭角をあらわすような古代の 歴史教訓的な主題をけっして描こうとはしませんでした。
女性的要素が最も重要な位置を占めるテーマを重視して、オリンポスの神々の 神話と
同一のエピソードをためらうことなく描きました。
1732年から1757年の間の作品「ウルカヌスの鍛冶場」の4点のヴァージョンがあります。
1757年の大作はゴブラン製作所によって「神々の愛」のタピスリーとするためのもの
でしたが、  ブーシェはアキレウスとの間に生まれた不義の息子アイネアスのために、
自らの魅力で夫の ウルカヌスに武器を作らせることに成功したヴィーナスの肉体に賛辞を
捧げています。 審美的規則を尊重して、彼は鍛冶場の神の赤銅色の肉体に女神の乳色の肌を
対比させ女神の美しい身体は同じような魅力を持ったモデルに基づいていて、彼はその
モデルとともに デッサンの習作を数多く手がけています。


この神話は、官能的表現を示すことが多く、神々が狙いを定めた者を誘惑するために
用いる策略を明らかにしています。
まるで演劇ででもあるかのように、ブーシェは仮装や変身に愛着を抱いてユピテルは
「エウロペの捕獲(1747)」を行うために、白い力強い雄牛の姿で現れています。


果樹園の神ヴェルトゥムヌスは、ボモナに愛人を迎えるように説得するために老婦人に
変装します。曲線的で、また装飾的なリズムの構図がもたらす物憂いげな魅力の女神
たちに慣れ親しんだブーシェは、名人技のタッチと非常に清新な色彩の助けを借りて、
神話の優雅な
テーマを描き、当時の絵画を一層鮮明な官能性の方向へと導びきました。

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セントマイケルズ‐マウント(St. Michael's Mount)

セントマイケルズ‐マウント(St. Michael's Mount)

英国イングランド南西端、コーンウォール州の都市ペンザンスの東約 5キロメートル、マイケル湾に
ある島。干潮時には本土と地続きになる。
11世紀に礼拝堂が創建、12世紀に ベネディクト派修道院になった。
中世にサンティアゴ‐デ‐コンポステラへの巡礼路として栄えた レイラインの起点で
「セント・マイケルズ・マウント」からこの 不思議の道を辿って行く海に浮かぶ小さな島セント・
マイケルズ・マウント。島の上には小さな城と礼拝堂が立ち並び、非常に神秘的な雰囲気に
まれています。島に繋がる石畳の道は潮の満ち引きによって道が完全に閉ざされてしまうそう
ですが、 さて、みなさん以前どこかで似たような島をご覧になったことはありませんか?


解答は、そう、フランスのモン・サン=ミシェル。 モン・サン=ミシェルはフランス語ですが、
実はこれを英訳するとSt. Michael’s Mount、 つまり似たような二つの島に全く同じ名前が
付けられていることになります。
興味深いのは、フランスのモン・サン=ミシェルもまた別のレイライン上に 位置し、しかも
そのレイラインの延長線上にイギリスのセント・マイケルズ・マウントが 位置していること。
これは偶然なのか、それとも意図されたことなのか、非常に気になりますね。
セント・マイケルズ・マウント(Saint Michael’s Mount)はモン・サン=ミシェルと 同様に
1000年前に建てられた修道院でした。 モン・サン=ミシェルはフランスの北海岸にありますが、
セント・マイケルズ・マウント はイギリスの南海岸にあります。
そして、これらの修道院は直線上にあります。つまり、モン・サン=ミシェルから船に 乗って、
真北に行くと、イギリスのセント・マイケルズ・マウントに到着するのです。


セント・マイケルズ・マウントも小島に建っていて、干潮時にはその小島から本土へと
繋がる土手道があり、満潮時にはそれが隠れ完全な島となります。
このセント・マイケルズ・マウントには尖塔がないので、修道院よりお城のような外観です.
そしてそれはこの島の波乱に富んだ歴史を反映しています。 セント・マイケルズ・マウントは
修道士によって作られましたが、歴史を通して 修道院は接収され、胸壁が加えられ、数台の
大砲もあります。しかし、この半分砦で半分修道院という建物はとても魅力的な場所と言えます。

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絵画の旅「マリー・アントワネットのお抱え女流画家エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン」
マリー・アントワネットのお抱え女流画家 ルーヴル美術館
有名な女流画家は、マリー・アントワネットのお抱え女流画家。
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

Elisabeth-Louise Vigee Le Brun 1755年4月16日 - 1842年3月30日)
18世紀の最も有名なフランス人女流画家。 画家ヴィジェの娘としてパリで
生まれ親から絵画教育を受け、当時の大家たちから の助言を受けた 彼女は,
10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていました。
1776年に、画家で画商であるジャン・バティスト・ピエール・ルブランと
結婚しました。 多くの貴族の肖像画を描いて、画家として成功しました。
そして、マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に
招かれ、 次の数年間は、ヴィジェ・ルブランは王妃や子供たち、王族や
家族の肖像画を 数多く依頼され、王妃を満足させました。  
1783年3月31日、ヴィジェ・ルブランはフランスの王立絵画彫刻家
アカデミーの 会員に、歴史画家として迎えられました。 また女流画家
アデライド・ラビーユ・ギアールも同じ日に入会が認められました。
 ヴィジェ・ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを
管理する 男性たちに反対されましたが、結局、彼らの主張はルイ16世の
命令によって 破棄されました。
マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力を
かけたからで あります。

同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーでは
なく、女性同士が比較される事は当然の事だったのです。
フランス革命の最中に王族が逮捕された後、ヴィジェ・ルブランは革命で
顧問客を失い、 彼女自身も逃亡しなくてはならなくなってしまい、
数年間をイタリア、オーストリア、 ロシアで生活して、画家として
働きました。 そこでは貴族の顧客を扱った事が、それまでの経験がとても
役立ちロシアでは貴族たち から歓迎され 女帝エカチェリーナ2世の皇族
一員を多数描きました。  
ロシア滞在中にヴィジェ・ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの
会員と なりました。  
第一帝政期にヴィジェ・ルブランはフランスに戻りましたが、また、
イギリスを訪れ バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描きました。
1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の
肖像画を 描きましたが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年には
スイスに赴き、 ジュネーヴの Societe pour l,Avancement des Beaux-Arts の
名誉会員と なりました。
フランスが王政復古するとルイ18世は、彼女を手厚く迎えてフランスを
安住の地としました。
彼女はご存知のように王妃マリー・アントワネットのお抱え宮廷画家 だったので、
ヴェルサイユ宮殿を訪れると彼女が描いたたくさんの絵画に出会えると 思います。

マリーアントワネットそして、とても有名な「マリー・アントワネットと子供たち」の絵画
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ルネ・ラリックの世界(René Lalique)
ルネ・ラリック(René Lalique)  LALIQUE ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコ期を代表する宝飾デザイナー
ルネ・ラリックによって創設された光と影の芸術をハンドメイド クリスタルで
表現するフランスのブランド「ラリック」。


その特徴は、花や樹木、昆虫、動物、神秘的な女性像などを題材とし、 フロステッド
といわれる艶消し技法を使ったレリーフによる装飾表現です。
フランス語でサティナージュと呼ばれるこのテクニックにより、光は単純 に透過する
ことなく内部にこもってから柔らかに反射されるため、赴き あふれる陰影が生まれます。
深い白色のトーンから透明に近い仕上げまで、 多彩なフロステッド加工において
ラリックは世界最高の技術を誇ります。
1860年4月6日 - 1945年5月1日)は、19世紀〜20世紀のフランスのガラス 工芸家、
宝飾ジュエリー)デザイナー。
アール・ヌーヴォー、アール ・デコの両時代にわたって活躍した作家。


前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、
その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いて
いたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎて からである。
1860年、フランス、シャンパーニュ地方マルヌ県アイ村に 生まれ、パリで育った。
1876年、パリの装飾美術学校に入学し、宝飾工芸家 で金属細工師のルイ・
オーコックに師事し、装飾の技術を習い、夜はパリの 装飾美術学校で学んだ。
その後1878年から1880年までイギリスに滞在しサイデナム・カレッジで学んだ。
                


パリに帰ったラリックは、1882年頃からフリーランスの宝飾デザイナーおよび
グラフィック・ーティストとして活動しはじめ、1885年にはパリの ヴァンドーム
広場にアトリエを構えるまでになった。
この頃のラリックは、 おもに女性向けの高級アクセサリーをデザインしていた。
カルティエなどの 著名な宝飾店にも作品を提供し、当時の高名な女優サラ・
ベルナールも顧客であった。
1897年、レジオンドヌール勲章を受章。
1900年のパリ万国博覧会では宝飾作品が大きな注目を集め名声を得た。 

                   
ラリックは1892年頃から宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れていたが、
本格的にガラス工芸の道へと進んだのは、ファッションの流行がボリューム
あるふくよかな服装からシンプルなラインを強調するスタイルに移った ため、
派手な装飾がある宝飾品が売れなくなったからといわれる。
実際に1905年頃を境にしてラリックのジュエリーは人気凋落が著しく、
評論家たちは手のひらを返したようにラリック作品に「陳腐」「悪趣味」 と
いった悪評を浴びせかけた。
1908年、ラリックはコティの注文により、香水瓶とラベルのデザインをした。
優美なデザインの瓶に香水を詰めて販売するというのは、当時においては 斬新な
試みであった。
同じ1908年、ラリックはパリ東方のコン=ラ=ヴィルに あったガラス工場を借り
(のちに購入)、本格的にガラス工芸品の生産を始めた。 1918年にはアルザス
地方のヴァンジャン=シュル=モデール(フランス語版) に新たな工場の建設を始め、
1922年(1921年とも)年に完成した。
これが、21世紀の今日まで続くラリック社の起源である。



1912年に宝飾品の展示会を開いた後、ガラス工芸品の製造に専念するように なった。
香水瓶、花瓶、置時計、テーブルウェア、アクセサリーなどを手がけ、 1920年代頃か
らはラスの分野で再び人気作家の地位を取り戻した。 1925年のパリにおける現代装飾
美術・産業美術展では、ラリックのために 1つのパビリオンが与えられた。
時流に沿って幾何学的構成の文様や器形を 採用するようになり、アール・デコ様式の
流行の一翼を担ったとされる。 1920年代から1930年代のラリックは、「パリ号」
「イル=ド=フランス号」 など大西洋横断航路の豪華客船やオリエント急行の客車などの
インテリア (ダイニングルームなどのガラス天井、装飾パネル)を担当した。
また、レストラン、ホテル、邸宅などの装飾、ステンドグラス、噴水など、 さまざまな
分野に活躍の場を広げた。
シボレーやジャガー、ロールス・ロイス などのカーマスコット(自動車のボンネット
先端に付けた装飾)作品も多数ある。 日本との関係では、1932年に旧皇族朝香宮邸
(現・東京都庭園美術館)の ガラスの扉やシャンデリアなどの製作を受注している。
1945年に亡くなるまで ラリックは数多くの作品を発表したが、晩年はリューマチが
悪化してデッサン が描けなくなった。


20年代から娘のスザンヌがデザインを手がけたものも ラリックの名前で発表された
ので作風に相当な幅が見られる。 事業は息子のマルクが継ぎ、近年までラリックの
孫娘であるマリー=クロード が経営とアートディレクションを になっていたが、
マリーは1994年に ラリック社の株を売却。血縁者による経営は終わりを告げた。
ラリック社は現在、化粧品や香水の容器を製作するポシェ社の傘下に入っている。
また、日本法人のラリック株式会社は、2005年7月31日付けで会社を清算している。
ラリックのガラス工芸品には、動物、女性像、花などアール・ヌーヴォー時代に 好まれた
モチーフが多く見られる。素材としては乳白色で半透明のオパルセント・ グラス(en)を
好んで用いた。これは、光の当たり方によって色合いが微妙に変化 するものである。
1920年代中頃からは色ガラスの作品も増えるが、色ガラスを使う 場合も単色で用いる
ことが多かった。技法的には、鋳鉄製の型を使った型吹き 成形およびプレス成形による
ものが多い。
「型吹き成形」:鉄製の凹型に溶けたガラスを空気圧で押し込むもの                     
「プレス成形」:凹型と凸型を用い、凹型に流し込んだガラスを凸型で押さえる もの               
これらの工程は機械化され、大量生産に対応していった。





 
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リニューアル続出、ロンドンの高級ホテルの一部紹介
リニューアル続出、ロンドンの高級ホテルの一部紹介
2010年に創業100周年を迎え、大々的にリニューアルした老舗高級ホテル、
ゴーリングの客室 2010年、2011年と老舗高級ホテルのリニューアルが相次いだ
ロンドン。今回は、大々的に全面改装を終えた2軒と、注目のレストランが
オープンした1軒をご紹介します。
いずれも一泊250ポンド以上ですが、それだけの価値あり!の素敵なホテル
ばかりです。



バッキンガム宮殿のお膝元ザ・ゴーリング
2011年4月のロイヤル・ウエディンでも注目を集めました. 創業から105周年を
迎えたゴーリング。今でも創業一家が営む、エレガントな老舗5つ星ホテルです。
2011年4月、 キャサリン妃がウィリアム王子との婚礼前夜を過ごす場所として
選ばれたことでも世界的に有名になりましたね。 あくまで正統派イギリス式に
こだわり、71室ある客室は全てイギリス式インテリアで統一。
ホテルのレストランも、 もちろんクラシカルな正統派イギリス料理です。
また、きれいに手入れの行き届いた中庭をながめながらいただく アフタヌーン
ティーは、ロンドンではトップクラスのクオリティーです。
ヴィクトリア駅から徒歩5分という便利なロケーションながら、カントリーハウスで
寛いでいるかのような優雅な感覚を味わえる、素敵な空間です。


The Goring(ザ ゴーリング)London,
住所:Beeston Place London,England SW1W 0JW,United Kingdom
電話番号:+44 207 396 90 00
ホテルクラス:★★★★★(5.0)
住所:15 Beeston Place, London SW1W 0JW
アクセス:ヴィクトリア(Victoria)駅から徒歩5分
TEL:020 7396 9000        Email:
reception@goringhotel.co.uk



世界のVIP御用達の老舗 ザ・サヴォイ
創業1889年のサヴォイ。歌劇場サヴォイ・シアターの観客のために、劇場に併設
されたのが始まりです。以来、 上流階級御用達ホテル、ロンドン社交界の中心地と
してイギリス、世界のVIPが集う場所となりました。
そして2008年、徹底的な修繕・改装工事のため、創業以来初めて、1年以上の全面
休業を決行。総工費1億ポンド (約126億円)を超える大々的な改装を経て、
2010年秋にリニューアルオープンしました。
268ある客室のインテリアは、創業当時をしのぶエドワード調と、1930年代以来、
サヴォイの基調となってきた アールデコ調の二通り。また、かつてホテルの
常連客だった著名人にちなんだパーソナリティー・スイートも 新たに9室できました。
それぞれクロード・モネやウィンストン・チャーチル、フランク・シナトラなどの
名前を 冠し、滞在当時のエピソードにちなんだ小物が置かれています。
料金は一部屋一泊305ポンド(朝食込み・税別)から。 有名シェフ、ゴードン・
ラムジー監修のメインダイニングや、アフタヌーン・ティーにも注目です.
ちなみに、サヴォイ前の大通り、ストランドからホテルの正面玄関までの小さな
路地は、ロンドンで唯一の 「車両右側通行」の通り。
その理由は、サヴォイのゲストが到着した時、スムースに降りられるようにするため、
なんだそうですよ。 The Savoy A Fairmont Managed Hotel

ザ サボイ ア フェアモント マネージド ホテル) The Savoy
住所:Strand London,England WC2R 0EU,United Kingdom
電話番号:+44 207 836 4343 ホテルクラス:★★★★★(5.0)
 チャリング・クロス(Charing Cross)駅から徒歩5分


 
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No.235.Tommy's絵画美術館「裸のマハ」と「着衣のマハ」
No.235.Tommy's絵画美術館「裸のマハ」と「着衣のマハ」

■「裸のマハ」
(La Maja Desude) 1798-1800年頃 97×190cm 
油彩・画布 プラド美術館(マドリッド)
近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤ屈指の代表作『裸のマハ』。
(※マハとは、スペイン語で<小粋な女>を意味する)を描いた作品。
バロック絵画の巨匠 ディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』と共に
厳格なカトリック国家で、神話画を含む如何なる作品であれ裸体表現に
極めて厳しかったフェリペ4世統治下のスペインにおいて制作された。
非常に希少な裸婦像作品であるが、ゴヤは本作を描いた為に、制作から
15年近く経過した1815年に異端審問所に召還されている。
モデルについては古くから論争が絶えず、諸説唱えられているが、
現在ではゴヤと深い関係にあったとも推測されるアルバ公爵夫人マリア・
デル・ピラール・カイェタナとする説画家の重要なパトロンのひとり
宰相ゴドイの愛人ペピータとする説 ゴヤの友人で神父バビが寵愛していた
女性とする説(ゴヤの孫マリアーノが証言) などが有力視されている。
注目すべき点は、その類稀な官能性にある。 ベラスケスの『鏡のヴィーナス』
が理想化された裸体表現の美とするならば、 自然主義的な観点による
豊潤で濃密な裸婦表現の美と位置付けられ、 特に横たわるマハの丸みを帯びた
女性的肉体の曲線美や、単純ながら 心地よい緩やかなリズムを刻む画面
(の対角線上)への配置などはゴヤの 洗練された美への探究心と創造力を
感じさせる。また挑発的に観る者と 視線を交わらせる独特の表情や、
赤みを帯びた頬、そして計算された 光源によって柔らかく輝きを帯びた
肢体の描写などは、本作がスペイン 絵画屈指の裸婦作品としての
存在感を十二分に示す最も顕著な要因の ひとつである。


■ 着衣のマハ
(La Maja Vestide) 1798-1803年頃 
95×190cm 油彩・画布 プラド美術館(マドリッド)
近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた数多くの作品の 中でも
最も有名な作品のひとつ『着衣のマハ』。本作は画家が≪マハ≫
(※スペイン語で<小粋な女>を意味する)を描いた作品で、 『
裸のマハ』を制作した翌年以降(1800-1803年頃?)に 手がけられたと
推測されている。本作と『裸のマハ』は画家の重要な パトロンのひとりで、
権力を手にしてから皇太子や民衆を始め様々な 方面から非難を浴びせられた
宰相ゴドイが所有しており、その為、 一般的にはこの2作品は宰相ゴドイが
制作を依頼したものだとする 説が採用されている。『裸のマハ』と
同様の姿勢・構図で描かれ 『裸のマハ』との最も顕著な差異は、
マハは当時 スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れた
トルコ風の衣服に身を包み、化粧も整えている点である。
これらの描写はゴヤ特有のやや大ぶりな筆触によって繊細ながら
表情豊かに表現されているほか、色彩においても黒色、金色、緑色、
紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の
雰囲気や質感を見事に表現している。 モデルについては古くから
アルバ公爵夫人マリア・デル・ ピラール・カイェタナとする説が
唱えられているが、画家が残した アルバ公爵夫人の素描や肖像画の
顔と比較し、あまりに異なる点が あるため否定的な意見を述べる
研究者も少なくなく、現在では 宰相ゴドイの愛人ペピータとする
説なども有力視されている。 なお本作と『裸のマハ』は宰相ゴドイの
手からカサ・アルマセン・ デ・クリスターレス、王立サン・
フェルナンド美術アカデミーを 経てマドリッドのプラド美術館へと
移された。
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No227.Tommy’s絵画美術館2015年1月の作品「ドミニク・アングルのドヴォーセ夫人の肖像」
No227.Tommy’s絵画美術館2015年1月の作品
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの
ドヴォーセ夫人の肖像


(Madame Devauçay) 1808年76×59cm | 油彩・画布 |
コンデ美術館(シャンティイー)
フランス新古典主義の大画家アングルは、フランス南西部門徒バーン近郊の
村の家具の装飾家の子として生まれ絵画と共に音楽も学びヴァイオリン奏者と
して有名である。
12歳の時トゥルーズのアカデミーに入学、新古典派の巨匠ルイ=ダヴィットの
アトリエに入門しその後、イタリアに留学長期間ローマ、フィレンツェで活動し
ラファエロ、ミケランジェロの古典化の影響を受けこの時期有名な『浴女』(1808年)
『グランド・オダリスク』(1814年)などの作品がある。

1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催され大人気を博した。
代表作の1つ『トルコ風呂』は、最晩年の1862年の制作である。
円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の
画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。
  
アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えた。
その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。
その作風は、イタリア・ルネサンスの古典を範と仰ぎ、絵画制作の基礎を
尊重しながらも、独自の美意識をもって画面を構成している。
亦、近現代の画家にも影響を与え印象派のドガやルノワールをはじめ、
アカデミスムとはもっとも無縁と思われるセザンヌ、マティス、ピカソらにも
その影響は及んでいる。当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」として、
フランス政府に禁止するよう抗議した一方、自らの制作に写真を用いて
いたことでも知られる。

アングルが『皇帝の玉座のナポレオン』をサロン出品した際に酷評を受け、
失意の内に訪れたローマの地で制作された本作は、ローマ法王庁に派遣されて
いたフランス大使シャルル・アルキエの愛人≪ドヴォーセ夫人≫をモデルに
手がけられた肖像画作品。


画面中央へ配されるドヴォーセ夫人は背もたれの赤い曲線の優美な椅子に
柔らかく腰掛け、顔面は真正面から、身体やや斜めに構えた姿勢で
捉えられている。
薄く口角を上げ、観る者へと真っ直ぐに向けられる瞳の深遠な輝きは、
ほぼ左右対称に分けられた頭髪や、凛とした眉と共にドヴォーセ夫人の
知性を感じることができる。さらに黒髪と合わせるかのようなドレスの
深い色彩は天鵞絨(ベルベット)風の質感に程よい 品位を与え、
また衣服や首飾りの色彩とドヴォーセ夫人の白い肌や大きな金色の
ショールとの色彩的対比を生み出している。
そして左手には指輪、右手には豪奢な扇子と細い腕輪が緻密な筆捌きで
丹念に描き込まれている。 そして何より注目すべき点は、これらの描写が
明らかに長すぎる左腕の不自然さを消している点にある。
左腕のみに注目し、右腕や全体と比較すると変異的な右腕の長さに
気がつくことができるものの、黄金のショールで左腕を隠し、
また左半身を前斜めに向けて描くことで全体のバランスを整えている
ことがよくわかる。さらに陰影に乏しい黒色の衣服や対角的に描き込まれる
丸みを帯びた赤い椅子によって、不自然さの隠蔽に成功している。
このような理想美の追求のために構造的な違和をも用い、
さらにそれを見事に調和化させる表現手法や写実的描写には、
アングルの類稀な画才と絵画的革命性を感じずにはいられない。
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NO.226-1 12/8発グルメと印象派の旅パリ&ベルギー8日間1日目報告
クリスマスシーズンに行く西日本新聞旅行共同企画「グルメと印象派の旅」
パリ&ベルギー8日間12/8発
の旅ツアー報告 298,000
今回のツアーは、健康に気を使って現地の乗り物も利用。
亦、隠れた穴場も紹介。 少人数でゆっくり楽しむ寛ぎの旅のはずでした!
出発前のセールストークは、日本からの直行便で行くから大変便利で
しかも添乗員付き少人数で行く旅を歌い文句にベルギーでは人気の4ッ星/
特上ホテルに宿泊!
ベルギーでの朝食は一味違うブレックファーストや名物料理をゆっくり頂く
おすすめ商品として紹介! 
各都市の市内観光と印象派の世界を散策しルーアンではモネが描いた
部屋からノートルダム寺院を特別観光!
※パリでは西日本新聞パリ支局主催編集長を囲んでのディナーをお楽しみ
いただく趣向で出発当日福岡空港へ!
今回の旅は、鉄道のストライキで空の便が乱れてフライトキャンセルが続出。
その余波は、現地ホテルやローカル線に及び大変な旅になりました。
毎日毎日が時間との戦いで はらはらドキドキ! でも何とか皆様無事に満足されて
帰国されました。
写真と共に1日毎に紹介します。


1日目 12/8(月)
出発当日の朝は、薄暗く今雨が降りそうな空模様。
旅行の際先から怪しいムードが…
時間厳守9時集合。搭乗手続きが終わって4階のレストラン祇園亭で出発前の結団式。
参加者8名コーヒーを飲みながら談笑。鉄道の余波で当日アムステルダム〜ベルギー
ブリュッセルまでの乗り継が無理だと 判明し動揺が走る。
とにかくアムステルダムまで行くことに決定!
KLMオランダ航空(KL)
福岡朝発10:25―KL870便でアムステルダム15:10着へ。ここまでは、順調!
アムステルダム着後、ベルギー国鉄列車のストライキの余波でこれから先の飛行機が
飛ばない!スケジュール変更でアムステルダム空港近くのホテルSchipholA-4
(4ッ星ホテル)に1泊することに。 
ホテルチェックインは18時。この日のブリュッセルのホテルは、当日キャンセルの為
払い戻しなし。残念!
日本人の宿泊は、我々だけ。 クリスマス・ムード満点でヨーロッパに来た気分十分!
夕食会場へ!ホテル内は、はクリスマスムード一色!

夕食19:00スタート:おすすめのスープ、あまりのメイン料理の量/大きさにビックリ!!
メイン:ビッグハンバーガー/スパゲッティ/魚のフライからチョイス+デザート
ホテルチェックイン後、疲れているのでホテルで夕食を取って熟睡…

ホテルロビー(上)下の写真は、夕食風景。


夕食メニュー:あまりの量にビックリ!ハンバーガーが日本の4〜5倍!
―機■アムステルダム泊 空港から車で15分と便利なSchipholA-4宿泊★★★★
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